1 プロローグ
 現在、小網代の森というとアカテガニやクサふぐの産卵に代表される様々な生物の生態で話題になっています。 そして、自然観察のツアーが組まれ遠路はるばる大人から子供まで幅広い世代の人々が訪れている名所でもある。
 一般に小網代の森というと、三浦半島の中央部、引橋の谷戸に発する小川沿いの森と湿原、そしてその川が注ぐ小網代湾を含む一帯の 自然を総称しています。
 この小網代の森という名称は昔からあったものではなくて、最近言われ始めたものです。 地元の人々は単に小網代の海とか、ゴルフ場の下の田圃などと呼んで遊び親しんでいたもので、どこにでもある谷戸の一つでした。 しかし、小網代・三戸地区の開発計画の話が持ち上がり、それに呼応して開発反対と自然保護の動きが起こってから急に クローズアップされてきたのです。
 そして、市外からナチュラリストと称する人々が入り込み、隅から隅まで調査、探検し、貴重な自然であることを証明するとともに、 その自然を保護していくために、小網代散策マップや看板を作ったり、機関紙を発行して啓蒙したり、 土地の買い上げや小網代の森の取り扱い方などを決めようとするなど、さまざまな取組みを行っているようです。
 しかし、独断と偏見で言わせてもらえば、子供の頃から小網代を身近な遊び場として親しんできた地元住民にとって、 自然保護を押し立てて部外者がわがもの顔に歩き回り、名前をつけたり、我々にとってはあたりまえであったこと などを貴重な出来事として発表したりしている事は、 いわば文明を振りかざして未開の地に進入してきた白人に対する、原住民の心境であります。
 それはさておき、小網代の将来を考える上でも、過去を知ることは決して無駄ではないでしょう。 つたない内容ですが、参考になれば幸いです。

2 小網代の歴史
 明治、大正の頃は古老などに聞かなければ分からないが、昭和の初めには既に、海岸べりから谷戸の奥まで田が耕作されていたらしい。
 昭和30年代には、小網代湾を望む高台のあたりは、結婚式場、ゴルフ練習場などがあったリゾート地であったようです。 しかし、私が移ってきた昭和40年代には、既に結婚会館やゴルフ練習場は閉鎖、また別荘のように建っていた人家なども取り壊され、 過疎の村のような状態でした。
 そして、昭和50年代にかけて、田も次第に放棄されていき、田の跡には草木が繁茂し、自然に帰っていきました。 今や田は全てなくなり、かっての里山の面影は全く感じられません。
 現在、貴重な自然と訴えているものは(森の部分については)、実は昔から存在したものでなく、30年近くかかって 自然が新たに作り上げたものなのです。
 さて、古き良き時代、昭和40年代にはまだ、田が広がり、人間の手が入ったいわゆる「里山の風景」が展開していました。 田の周りには畦道が縦横に走り、彼方には小網代の海と、子供心にも春夏秋冬それぞれに美しい風景でありました。 そして、我々の最上の遊び場でもありました。そんな、昔の小網代の姿をお伝えします。
古写真 航空写真(拡大click)
昭和4年頃 昭和29年 昭和60年
アサリ掘り(潮干狩り)
 水がぬるむ頃になるとよくアサリ掘りに出かけた。 干潮の間が勝負なので、新聞で時間を調べて熊手とバケツをもって出発。ゴルフ場から見下ろすと黒っぽい干潟の上に 色とりどりの服が賑やかだ。
 ゴルフ場の山を駆け下り、畦道を飛ぶように走って、早速掘り始める。干潟のどの部分に居るかは経験で分かる。 干潟の先から人が掘っていない所を掘っていく。 コツは、あまり深く掘らないことだ。あさりはごく浅い所におり、熊手で軽く砂を引っかくだけでころころでてくる。 が、石ころと混じっているので瞬時に石とアサリを見分けるのには慣れが必要だ。深く掘るとたまにシオフキなども掘れる。
 夢中であちこち掘り回っていると、いつのまにか、満潮の時間ですぐそばまで潮が寄せてくる。 潮に追われながらだんだん移動していくが、岩場の辺りで終わり。ここより奥にはアサリはいないのだ。
 さて、バケツ一杯取れると、持ち帰るのが大変である。海水を入れたバケツは重く、ゴルフ場の坂を休み休み登って帰宅する。 泥を吐かせて明日の朝はアサリの味噌汁である。

干潟遊び
 子供にとって小網代の海は格好の遊び場だった。といっても、遊んでいるのはほとんど我々だけで他の子供の姿を見たことが無い。
 遊ぶのはたいがい干潮時である。ゴルフ場から見て潮が引いていると出かけていった。 主に干潟にできた川で遊んだ。ただ浅瀬をジャブジャブ歩くだけでも楽しかったし、石を組んでダムを作ったり、船を流して競争したり、 ボラを追いかけたりした。
 ボラは群れをなしており、5センチ程度の深さなのに、時には、30センチもの大物も混じっていて、たも網を握って浅瀬を バシャバシャやりながら追いかけたものだ。川は干潟の上を湾曲して中央部の岩場の下を通って海へ注いでいた。 岩場のところは少し深いトロ場になっていて、ハゼやボラや名前のわからない魚がたくさんいた。ボラの群れも結局この深場へ逃げこみ 捕まえたことはなかった。
 ボラと言えば、橋の下も深みになっており、大物が悠々と泳いでいた。大物にかぎって何故か傷ついていたのを覚えている。 傷を癒していたのだろう。 遊んでいると、様々な生物が目につく。当時は自然観察などという気の利いた考えはなかったが、変わった生物を見つけると 帰って図鑑で調べたりした。
 面白かったのが、「クサふぐ」の大群である。普段からクサふぐは多くいたが、ある時期、波打ち際に大群で押し寄せてきた。 干潮から満潮の間の潮が上げていく水際で群れている。 そして、足でドンと踏み鳴らすと一斉に沖へ逃げていく。 また、ある時は、何の前触れも無く水際に近づいた途端、バシャバシャと大群が動き出し、ビックリさせられたこともあった。 今にして思うと、あれが有名なクサふぐの産卵であったのか。
 また、だれもいない干潟一面に米粒ほどの生き物が沢山動いていて、近づくと足音で一斉に穴に隠れてしまう。チゴガニの体操である。 カニについては、生態系が変わったのか、アサリ掘りが盛んであった頃は、コブシガニが沢山いたが、その後アサリ掘りが廃れてからは、 何故か、コブシガニがいなくなって、変わりにシオマネキが現れてきた。 シオマネキは、図鑑などで必ず紹介されており良く知っていたので、見つけたときは嬉しかった。 その後もカニといえばほとんどシオマネキになってしまった。
 変わったところでは、大潮の際(湾奥部がほとんど干潟になった)に、アオサやアマモの下をめくって何かいないか探していた時 「いざりうお」と「ウミテング」を見つけた。これも帰って図鑑で調べて分かったのだが、懐かしい記憶である。

海水浴
 不思議なことであるが、小網代湾で泳いだことは一度も無い。 波も静かだし、水は澄んでいるし、遠浅だし、海水浴には最適だと思われるのに、小網代では泳がなかった。
 これは、他に泳いでいる人がいないということもあるが、澄んでいるにもかかわらず海の水が汚いと思っていたからである。 小網代の集落の方にも行ってよく遊んだが、いわゆる漁港のため海がゴミやヘドロで汚ならしく感じていたためである。 事実、潮が満ちていくときに潮の先端が黄褐色に泡だち、よく糞尿が流れてきたと言って、その部分には入らないようにしていた。 また、夏場の海水は濁っていて、なおのこと体を浸すのがはばかられたのである。 しかし、水に全く入らないということでなくて、腰まで浸かってプラモデルの舟を浮かべて遊んだりはした。

魚釣り
 小網代の橋の上は、子供たちにとって絶好の釣り場である。
 餌は干潟で掘って調達した。当時はゴカイと思っていたが、本当は砂イソメやジャリメだったのだろう。 冬場は水が澄んでいて、魚の姿を見ながら釣ることができた。ダボハゼしか釣れなかったが数多く釣れ、競争をしたものである。
 本格的な釣りの場合は、沖の桟橋へ出かけた。今はコンクリートで固められているが、当時は桟橋の先端に小船(小網代の船と呼んでいた) が係留されており、その上で釣った。良く釣れたのがメゴチでキス、ハゼ、ヒイラギなども釣れた。釣れはしなかったが、 船から海を覗くと様々な魚がいた。ヨウジウオやアカヤガラ、ホウボウ、エイなど変わった魚を見かけたことがある。
ある時、うなぎが大量に浮かんでいたことがあった。魚はボラとダボハゼしかいないと思っていたので、びっくりした。 今にして思えば、上流で農薬か何かを使ったのであろう。

ゴルフ場
 現在、全く面影がないが、小網代湾を見下ろす高台に、打ち放しのゴルフ練習場があった。
 いつオープンして、いつ閉鎖されたのかは分からないが、物心ついた時には既に閉鎖されており、フェンスやクラブハウスは 破壊され、所々に雑草が蔓延った廃墟になっていた。
 しかし、景色が良く、自由に出入りでき、一面の芝生の広場であったため最高の遊び場であった。 また、このゴルフ場を抜けて下の田圃へ降りていく道は、小網代湾への正規ルートであり、そんなことからも良く通ったものである。 ゴルフ場跡はもう一箇所、水源地のところにもあったが、こちらは谷戸の底で不気味なため、あまり行かなかった。
   さて、ここでの遊びはなんといっても芝ソリである。芝生の坂を、ベニヤ板をソリにして滑って遊んだ。 使い込むほどに底に芝の油がつきつるつるになるため、板切れを大事に使ったものだ。 また、南向きの斜面のため冬でも温かく、叢をかき分けてかくれんぼやおにごっごなど暗くなるまで遊んだ。 ある時、叢をかき分けた瞬間目の前を大きな鳥が飛び立った。山鳥であった。
 下部には、細長く砲台状に盛り上がった(ティーショットの場所)芝生の台地があり、寝そべって眺める小網代の海は最高の景色であった。 また、左手にはわら作りの小屋があって、我々の基地にしていた。しかし、いつだったか、近くの高校生が火遊びをして燃やしてしまった。 消防車が沢山集まりびっくりしたことを覚えている。
   こんな遊び場も自分が年を経るごとに遠のいていき、たまに通りがかるたびに藪が深くなり、いつしか鉄パイプで柵がされてしまった。 現在は、雑草と低木がはびこり、昔の面影は全く無く、海も望めなくなってしまった。 しかし、鉄柵の隣に藪を切り開いて一箇所出入り口ができており、そこから昔と同じように小網代湾へ下りていくことができる。

ゴルフ場の下
 今は、草薮の湿原であるが昔は、一面の田圃であった。ゴルフ場からつづら折の里道を降りてくる。雑木林の気持ちの良い道である。 所々木々の切れ目から小網代の海が見える。下りきると目の前にぱっと田圃が広がる。畦道が幾何学模様を描いている。 右手の畦道を選び、道なりに左、右と直角に曲がりながら石橋へ至る、 そして石橋の手前、小川の右側の畦道を通って小網代の橋へ至るのが通常のルートであった。
今でも良く覚えているのが、桜並木とかえるの卵とイトトンボである。
 今は、藪が深く近づくこともできないが、ゴルフ場の山を背にした畦道沿いに桜並木があった。 山桜であるが春にはそれは見事に桜が咲き誇り、風にあおられて花びらがひらひら田の水面に舞い降りるのを子供心に綺麗だと思ったことを 今でも良く憶えている。
 かえるの卵は、春先、田圃の水がぬるむ頃、畦道を歩いていると、ゴマが入った寒天のような塊が、田圃のあちこちに生みつけられていた。 そして、いつのまにかオタマジャクシが生まれ、手が出て足が出てカエルになっていったわけであるが、 おたまじゃくしが生まれた跡のふやけた卵塊が気持ち悪かった。
   夏になると、稲のむせ返るような草いきれのなか、青や黄色のイトトンボが優雅に畦道を飛び回っていた。 思いのほか簡単に手で捕まえることができた。 水辺が豊富なせいか色々なトンボがいた。川には羽が茶色のカワトンボが優雅に飛んでいたし、 夏も終わりに近づくと、どこから湧いたか赤とんぼが大量に発生し、 夕暮れ時、ゴルフ場の芝生の上で眺める赤とんぼに秋を感じたものだ。

大湿原の変遷
 さて、今は足場板が組まれているが、ほぼその下には畦道が通っていた。このあたりは現在背丈ほどの草薮になっているが、 ここにいたるまでの変遷をお話しましょう。
 田が放棄されると、まず稲の切り株の間に雑草が生えてくるとともに、田と田の間の畦道も水が 侵食してきて全体が沼地状になってきた。この頃は、春には畦道沿いに芹がたくさん生え、良く摘みにいった また、どこから来たのか雑草の間にガマが生えてきて、秋には茶色のガマの穂が行儀良く風にそよぎ風景にアクセントを添えた。 周囲の畦道は人が通らないし、手入れもされないので主に笹が生い茂り通れなくなってしまった。
 その後、更に雑草の丈が高くなってくるとともに、水がだんだんなくなり、湿地状に変わってきた。 乾燥して人が立入れる広場状の個所もでき、春には土筆が一面に生えた。この広場に腰をおろし春の日溜りのなかでぼんやり 鳥の囀りを聞いていると自然の安らぎを感じたものだ。
   しかし、大部分は湿地で表面は草に覆われて一見歩けるような感じがするが、足を踏み入れると踏みつけた草の間から水が 染み出してくるので長靴でないと歩けない。 この頃から小網代が外に知られるようになってきて、団体が立入るようになってきた。 大勢の人が歩くと当然ぬかるみが悪化する。先の乾燥地帯も泥濘になってしまった。
 現在も、状況は変わらず、昔の地形と関係なく、人が歩いた後が道になっている。地盤が固い部分はかっての畦道である。

狩猟区域
 このように自然の野山が広がっているので、狩猟区域になっているらしい。
 昔から冬になると遠くのほうで猟銃のドーンという音が良く聞こえた。また、小網代の道を歩いていると よく空の薬莢が落ちていたものだ。 ハンターに対して、「付近に民家があるので注意」との看板がたっていたが今は見かけなくなってしまった。
 しかし、現在も狩猟は行われている。近くにこれだけ住宅があるととともに、自然観察で大勢の人が山に入っている のに狩猟ができるとは、丹沢の山奥ではないのだ。時代錯誤も甚だしい。行政関係者の対応を望む。

小網代の風景
 小網代の森と小網代湾を含む全体の風景は、神奈川の景勝100選に選ばれるべき素晴らしい眺めである。 しかし、この風景を望めるところは限られている。2、3個所程度であろうか。
 個人的には法務局のあたりから見る景色が一番宜しい。深い森の先に小網代の海がまるで湖のように見える。 昔は、このあたりには何も建っていなかったので、歩く道々眺めることができた。 しかし、今は道路沿いに家が建て込みほとんど見ることができなくなってしまった。この素晴らしい景色を独占されてしまった。 …とぼやいてもしかたがないが。それでも一箇所だけ家々の間から望めるところがある。
 四季の移り変わりを一番感じるのがこの景色である。冬のモノトーンにかすれた感じの景色から春、 木々の梢に若葉が吹き出て、徐々に森全体が若葉色に染まっていく。 そして山桜の白が全体的に霞みがかかったように微妙な薄緑のグラデーションを作り出す。パステルカラーの水彩画のようである。 まさに若葉萌ゆる春である。 緑がだんだん深くなり、濃い緑一色に包まれると夏真っ盛りである。 それがいつのまにか、黄色に変化していく。秋の紅葉は、11月下旬から12月初旬がピークである。 黄色や茶色の中にアクセントのようにところどころヤマハゼの赤が混じっている。 紅葉の名所には及ばないが、晩秋の紅葉はそれなりに美しい。三浦半島では一番であろう。 そして、また冬がやってくる。
 さて、小網代のビューポイントとしてもう一箇所、森の大きさが実感できる場所がある。 引橋バス停と引橋の間の県道沿いで、木々の切れ目から富士山を背景に望むことができる。 ここからは、角度の関係で小網代の海は見えないが、 眼下に一面森が広がり、その先に相模湾が望めるという雄大な景色である。

3 エピローグ
 思いつくままに、書き綴ってきましたが、小網代は私にとって思い出の場所であるとともに、今もときどき訪れる遊び場でもあります。
 小網代の森を巡っては市、開発業者、自然保護団体、県、地元などが絡んでよりよい道を模索しているようです。 地元にとっては、少しでも便利になりたいと思うのが人情であるので、 もろ手を上げて開発反対とも言えないし、また、この自然を破壊することにも反対である。
 しかし、このホームページの目的は、小網代の開発問題に触れるものではありません。 また、自然観察という観点で小網代の森を紹介するものではありません。 小網代の歴史と現状を紹介することにより、これから小網代がどうなってくべきかを考える参考にしていただきたいと願っております。 小網代の将来が直接影響する地元にとって、これからの動きを注意深く見守っていきたい。

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