銃後の護りに因んだ広告

広 告

昭和12年支那事変勃発、新聞紙面には爆撃、総攻撃、陥落、制圧などの言葉が並び、破竹の勢いで攻め込んでいった日本軍だが、年末頃から戦死や戦傷の記事が増えてくる。 時は非常時、祖国の為に戦っている兵士のためにも、挙国一致で戦争遂行に邁進せねばならない。残された国民も銃後の護りを固めなくてはという世相となる。 広告も敏感に反応し、「銃後の護りのために・・・」という広告が続々現れてきた。
また、銃後の護りに役立つものは慰問品に好適なものもあり、両方を兼ね備えた広告も含む。

明治牛乳の広告
銃後を護るためにはまず健康な肉体が必要という入りやすい観点の広告。牛乳は今も昔も栄養飲料である。
内容
「低温殺菌 明治牛乳
栄養豊富な明治牛乳で強健溌剌な肉体を造り銃後を固く護りましょう!
明治製菓株式会社
掲載:昭和12年10月 

牛肉の広告
健康報国という言葉が登場した。 中川牛肉店は横浜市中区にあった牛肉問屋であるが、牛肉販売と牛鍋屋の元祖である中川屋嘉兵衛と関係があるのであろうか。
内容
「健康報国
銃後の護りはまづ健康 牛肉を召上り 体力を強健に錬えよ!
中川の牛肉宣伝部」
掲載:昭和12年10月 

クラブ化粧品の広告
現在の(株)クラブコスメチックスである。明治36年創業の中村太陽堂が前身であり、明治期からクラブ白粉や美身クリームを販売していた老舗である。 いつでも美しくありたいは今も昔も女性共通の願いであり、非常時、質素倹約を強いられた銃後の生活にも「健康化粧」という、うたい文句で、同社の製品をアピールする手法は、素晴らしい。
内容
「銃後の女性は… 健康化粧
この非常時には、皆様方も一層健康に注意して銃後の護りをかたくして下さい!お化粧も普通の方法とちがって、キリゝとして美しく、その上皮膚を健康にする次の健康化粧をおすゝめします。たった一分間で上品なうす化粧が出来て、しかもホルモンの科学的作用で美しい血色のよい地肌にします。この健康化粧こそ銃後の女性の床しい身だしなみでございます。(クラブビューティハウス発表)
クラブ乳液〜 クラブ美身クリーム〜 クラブはき白粉〜 最後にクラブほゝ紅、まゆ墨、口紅で仕上げを致しますと、地肌から美しくなって、しかも一日崩れない美しい健康化粧ができます。」
掲載:昭和12年10月 

キッコーマンの広告
日本を代表する醤油メーカー。ルーツは江戸時代に野田で醤油造りを始めた高梨家である。キッコーマンの商標が確立したのは昭和15年、また、ソースの販売は昭和11年からである。流行り言葉であったであろう「銃後を守る」を取り入れたシンプルな広告である。
内容
「兄弟仲良く銃後を守る
天下一品 キッコーマン醤油とキッコーマンソース
掲載:昭和12年12月 

須川靴店の広告
靴店も銃後を取り入れた。銃後の活躍のためには、足元、つまり靴がしっかりしていなければおぼつかないという実用的な広告である。調べた限りでは須川靴店は現存していないようである。
内容
「三十週年記念謝恩奉仕福引大売出し
銃後活躍は先ツ足元より而テ靴は正確なる 須川の自製靴を是非御利用を乞う
新年礼装靴大廉売 38年新型 紳士靴 婦人靴 学生靴 子供靴 実用靴
須川靴店 本店 伊勢佐木町四丁目 電(3)二二五〇番
第一支店 伊勢佐木町二丁目 電(3)六二九七番
第二支店 伊勢佐木町五丁目  振替口座東京八□四三二番」
掲載:昭和12年12月 

地球堂の広告
こちらの店も残っていないと思われるが、伊勢佐木町の文具店である。ボールペンが登場する前であり、当時は、鉛筆を除けば、万年筆が筆記用具の主役であった。当然、慰問品としても好まれたであろう。武器と万年筆を対比させているとろころに世相が反映されている。
内容
「戦線には精鋭なる武器!銃後の守りは優秀なる万年筆!金ペン付金一円より
征途に慰問に贈答に好適品 取揃えて御座います 優秀なる万年筆
伊勢佐木町花月前 地球堂 電話(3)一七五四」
掲載:昭和13年1月 

ニビア煉白粉の広告
今に続くニベアクリームの姉妹品である。当時は「ニビア」と発音していたようである。同時期に缶入り・チューブ入りのニビアクリームの広告も出されている。ニベアは明治44年にドイツで発売されたスキンケアクリームであり、すぐに世界展開された。 手間いらずの白粉で、このご時勢に最適という主旨である。
内容
「 ニビア煉白粉
時勢にふさわしく 経済的、能率的なニビア煉白粉
白粉下のいらぬ僅かな量でのり のびよく永持する
定価 一、八〇 〇、九五」
掲載:昭和13年4月 

芝山ラジオ電気商会の広告
当時はラジオの全盛時代であり、今のように簡単に買い替えはできないので、修理して使うのが一般的であったのであろう。銃後の備えを利用して、消費者に必要性を訴求している。
内容
「備えよ銃後!!一家に一台!
ラジオ電気蓄音器の修理は迅速技術優秀の専門店へ
芝山ラジオ電気商会
羽衣町弁天社入口 電話(3)六六四九」
掲載:昭和14年1月 

自の魂(健康器具)の広告
真空管を使って超短波を発生させる装置であり、蓋つきの木箱に入っている。本体から電線で繋がる放射器という電気行火のような部品を患部にあてることで効果を得るもの。宣伝文句にレントゲンより効くとあるが、当時はレントゲンも治療効果があると思われていたらしい。健康報国として健康もお国のためというご時勢であり、ラジオ体操やハイキングなどが奨励された。
内容
「銃後の守り 健康報国
万病克服の実験 自(ミズカラ)の魂(タマシイ) 七日間使用随意返品自由
自の魂 超短波快癒機はどんな病気にもラジウム、レントゲン、より驚く程のききめがあります 健康者も不断に用ゆれば益々丈夫長命になります 百聞一見に如かず、とに角どなたも一度お試し下さい、 実験無料
定価 普及型三十五円 但特売中二十二円
雄工社横浜営業所 自の魂実験所」
掲載:昭和14年7月 

健康報国書方募集の広告
ライオン歯磨本舗が主催し、時局下、学童の健康強化を目的に健康報国に因む書き方を募集したもの。賞が上位から天賞、地賞、人賞というのが興味深い。
内容
「全国学童 健康報国書方募集 紀元二千六百年奉祝
橿原神宮へ書方奉献 永世に遺す健康報国 記念塔も建立!〜
奉献の書方 尋常一年「つよいカラダ」(片仮名) 尋常二年「つよいからだ」(平仮名) 尋常三年(正しくつよく」(楷書) 尋常四年「正しく強く」(楷書) 尋常五年「健康報国」(楷書) 尋常六年(行書) 高等科「興国の日本輝く健康」(行書)〜」
掲載:昭和15年5月 

保土ヶ谷葡萄園の広告
今では想像できないが、保土ヶ谷にブドウ園が広がっていたのである。 以下花見堂酒店のHPから引用です。
■横浜保土ヶ谷ワインの歴史■ 1889 中垣秀雄(小田原藩士の子)米留学。ぶどうの栽培、ぶどう酒の醸造6年間勉強 1902 保土ヶ谷常盤台公園付近にぶどう園移設。「帷子葡萄園」としてスタート。 1万坪 赤アジロンダック 白デラウエア 渋みも苦味もある本格ぶどう酒を目指す。当時、日本人は甘口果実酒 赤玉ポートワインが主流。苦戦する。 戦後、帷子葡萄園も甘口志向目指す。 1938 7月保土ヶ谷カトリック教会(今の桜ヶ丘小学校奥)がパリ宣教師により設立。 「保土ヶ谷、霞台の坂を登っていくと欧州の田舎の雰囲気で、一面にブドウ畑が続き、その地にカトリック教会があった。」桜ヶ丘高校、花見台もブドウ畑であった。 1951 保土ヶ谷「帷子葡萄園」は赤玉ポートワインの壽屋、蜜葡萄酒の合同酒精、大黒葡萄酒のオーシャンに次ぐワインメーカーであった。 1965 競争厳しく廃業 2012 5月19日横浜保土ヶ谷熟(宿)ワイン花フェスタにて販売スタート
記事中、桜ケ丘高校の場所のブドウ園ではないだろうか。
内容
「銃後の健康はまづ食欲から!
●本園の特色 甲州三尺ヲ始メ龍眼種、ブラックハンブルグ 其の他 珍奇高級品種網羅ス 大房及龍眼(一房五〇〇匁位) 長くて珍しい三尺葡萄
開園 八月二十日より十一月十日まで 
横浜市保土ヶ谷区神戸山桜ケ丘(市バス警察署前 岩崎学園前下車) 保土ヶ谷葡萄園」
掲載:昭和16年9月 

防空用砂袋の広告

内容
「特許 防空用砂袋 特号(一升八号入) 一軍需用品 耐久力十ヶ月以上 一物資不足ノ折柄御利用下サイ
十枚四十銭、百枚三円九十銭 千枚三十八円、一万枚三百五十円
湘南一手販売元 横須賀市大瀧町四十五番地 本局横 小林覚路 
砂袋ハ各家庭ニ十枚以上必ズ備エナケレバナリマセン」
掲載:昭和17年2月 

防空暗幕の広告
防空演習など、空襲に対する取り組みは昭和の初期から行われていたが、この頃から、防空暗幕や防空砂袋など防空防火資材の広告が目につくようになってきた。 太平洋戦争に突入して、一般市民の防空に対する関心が高まってきたことが伺われる。
内容
「防空暗幕ハ株式会社睦美屋 横浜桜木町四電話(2)三九六四」
掲載:昭和17年2月 

中部防空防火協会の広告

内容
「本協会の事業   一、防空展覧会開催 一、防空思想普及用図解貸与 一、防空防火班指導 一、優良防空防火資材提供 一、空襲下模擬火災消化実験 一、防空防火思想普及宣伝 一、防空防火資材発明研究 一、防空防火工事設計請負 (カタログ進呈)
民防空の完璧は! 旺盛なる敢闘精神と優良資材の結合
水槽、砂袋、バケツ、トビ 梯子、長棒、救命引倒□、火タタキ、サイレン、拍子木警報旗、メガホン、携帯拡声器、吹流、救急鞄、担架、消防□□金製各種、手袋、消防頭布、めがね、鉄カブト、靴、非常袋、腕章、モンペ、婦人用頭布、電灯カバー、遮光紙、暗幕、専売特許防火液、防空壕酸素発生機 消火器、消化弾 日日防空防火用具研究発明中  
中防式ポンプ 一人押三五、00 二人押九五、00…一二五、00 四人押二一七、00…五一七、00 六人押四九0,00…六五0、00
中部防空防火協会 移転御通知 新事業所 大阪市北区松ケ枝町六八・電話堀川二〇八一」
掲載:昭和17年2月 

防空用砂袋の広告
先月にも広告を掲載しているが、今月はかなりあっさりした内容になっている。しかし、この一ヶ月で商店に格上げしたようだ。
内容
「防空用砂袋 戦いはこれからだ
▲至急各戸ニ備テ下サイ ▲水ニ強イガ特長軍需用マロキン紙
販売元 横須賀市大瀧町四五(本局前横丁入) 小林覚路商店」
掲載:昭和17年3月 

紅屋楽器店の広告
強引だが銃後報国と楽器を結び付けた広告。確かに音楽隊は戦意高揚に大いに役立った事は事実であり、地域や学校で組織され、祝勝行列やイベントの際には駆り出されたようだ。
内容
「聖戦下銃後報国は 力強いバンドのリズムから!!
軍隊ラッパ・愛国ラッパ隊・ラッパ鼓隊 旋律□隊・ブラスバンド・其他楽器・楽譜
(カタログ進呈)紅屋楽器店 大阪市南区日本橋筋四丁目五十四 電話〜」
掲載:昭和18年4月 

中井楽器販売株式会社の広告
上記の紅屋楽器店と同じ広告。住所が異なるようだが、この年、浪速区・南区・西区・天王寺区との間で境界変更賀行われたことによるもので、実際は同じと考えられる。ということは、紅屋から会社名が変わったということであろうか。
内容
「聖戦下銃後報国は 力強いバンドのリズムから!!
軍隊ラッパ・愛国ラッパ隊・ラッパ鼓隊 旋律□隊・ブラスバンド・其他楽器・楽譜
(カタログ進呈)中井楽器販売株式会社 大阪市浪速区日本橋筋四丁目三十八 電話〜」
掲載:昭和18年8月 

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