南京→漢口→新嘉坡陥落と続く戦勝を祝した広告

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盧溝橋事件以来、日本軍は破竹の勢いで進撃し、約5カ月で国民政府の首都南京に迫った。 昭和12年12月8日付紙面に「南京陥落」の文字が登場、見出しには「6日午後1時30万の敵軍潰走し、皇軍に高らかな凱歌、敵影なく城外で待機」記事では、「〜牙城南京も歴史的な我軍の喚声の下に遂に陥落した、今や三十万の烏合勢の影も無く城内は皇軍の入城を待つのみである〜」と書かれている。 この報を受けて県内各地では11日から様々な祝賀行事が行われた。支那事変もこれで一段落かと思わせたが、戦後処理を誤り、戦闘は続き
、 昭和13年5月徐州占領、10月には漢口が陥落したが、蒋介石は政府を重慶に移し、徹底抗戦、泥沼の日中戦争へと突入していく。
膠着状態の中、更に、昭和16年12月、米英に戦線布告し、太平洋戦争に突入した。 緒戦の電撃的な進撃により早くも昭和17年2月15日シンガポールは陥落し、県内いたるところで「よくやってくれた、おめでとう」の合言葉が飛び交い、歓喜に包まれた。

ベーカリーの広告
ムカイベーカリーは昭和12年12月10日に馬車道バス停前に開店した。新店舗は旧店舗の前だそうである。10日付けの開店の新聞広告には、早速、「南京大勝」の文字が登場している。

内容
「祝 南京大勝
新築開店 御会合に御商談に御待合せに 是非一度
ムカイベーカリー
市内中区馬車道通り 電話(3)四八二七」
掲載:昭和12年12月 
喫茶店の広告
特別に南京陥落を祝う広告というよりも、いつもの新聞広告に「祝南京陥落」を追加したものが多かった。これは横浜ブラジルという喫茶店の広告。 ブラジルのコーヒーは現在世界一の生産量であるが、意外にも日本と深い関わりがある。 明治41年以来、多くの日本人が移民としてブラジルに渡り、多くの方がコーヒー生産に携わったという。そして日本でブラジルコーヒーを広げたのが「カフェバウリスタ」である。 蛇足だが、銀座のカフェバウリスタでブラジルコーヒーを飲むことを「銀ブラ」と言うのである。

内容
「祝 南京陥落!
ブラジルコーヒー宣伝店
コーヒーはブラジル 御用談! 御待合は 横浜ブラジルへ 心地よき店!
中区曙町電停前 横浜ブラジル」
掲載:昭和12年12月 
奴利屋の広告
特に文字はないのだが、日章旗と旭日旗を描いているところが、時節柄戦勝記念を表している。 奴利屋、尾上盛とも正体不明である。

内容
「オノエ サカリ 樽詰・壜詰
尾上町六 奴利屋 電(3)五二〇」
掲載:昭和12年12月 
奴利屋の広告
同上の広告。各地の日本酒を扱っていることから、酒屋のようである。一升瓶のイラストがあるが2リットル詰めと書かれている。 いずれも現在に続く名酒である。なお、褒紋正宗とは、白鷹酒造が造っている幻の酒と言われている樽酒である。

内容
「御贈答品は是非高級銘酒を
元祖褒紋正宗 白鷹 特選日本盛 黄金富久娘 各二立詰
尾上町 奴利屋 電(3)五二〇」
掲載:昭和12年12月 
団体等の広告
昭和12年12月15日の紙面に掲載された広告。 横浜銀行集会所とは、横浜に所在する銀行の集会所で、明治27年4月に設立された。現在の横浜銀行協会である。青柳孫市商店とは、どうやら現在にも続くスクラップ屋さんのようである。

内容
「祝 南京陥落 横浜歯科医師会
祝 南京陥落 神奈川区平沼町二ノ一二〇番地 ヨコハマ 青柳孫市商店 電話神奈川(4)店用〇二九三、二三七〇 倉庫〇五三六、〇五六三
祝 南京陥落 財団法人 横浜銀行集会所」
掲載:昭和12年12月 
藤沢町長の広告
藤沢町長の南京陥落祝いの広告である。藤沢町とは明治41年に大坂町・鵠沼村・明治村が合併して藤沢町が発足、その後、昭和15年に市制が施行された。大野守衛は、昭和 9年に第6代町長に就任し、初代の藤沢市長も務めた。

内容
「祝 南京陥落
藤沢町長 大野守衛」
掲載:昭和12年12月 
横浜大東温泉の広告
戦勝の祝宴に御利用ください、という時勢に合わせた広告。大東温泉は現在は存在しない。 温泉と言っても、沸かし湯であったらしい。六ッ川とは、当時は中区であったが、現在は、昭和18年に新設された南区に編入されている。

内容
「祝皇軍戦勝! 謝皇軍奮闘!
大小宴会に応じます  祝宴に 忘年宴会に 新年宴会に 御利用の程!!
料理旅館 横浜大東温泉 中区六ツ川一〇八 電話(3)四六九一番」
掲載:昭和12年12月 
磯田商店の広告
年末商戦の時期でもあり戦勝記念を前面に出しての大売出し広告である。電停清正公前とは、京急日ノ出町駅から 伊勢佐木町へ向かい長者橋を渡って3本目の交差点である長者町八丁目にあった。この辺りは空襲で焼けてしまい、磯田商店もどうなったのか不明であり、清正公堂も存在せず、清正通りという名称だけが残っている。

内容
「祝皇軍戦勝大奉仕一割引 特価大売出し
屠蘇道具、会席膳椀。其他、正札より一割引
磯田商店 横浜市中区長者町八丁目百二十五番地清正公前電停際 電(3)六五〇四番」
掲載:昭和12年12月 
ヒゲのおかめ本店の広告
今見ても雰囲気良さそうなお店である。「伊勢ぶら」や「女中入用」等当時の世相が感じられる。現存していないようで、 場所からみて、昭和2年創業の釜飯のお可免とは違うようである。

内容
「祝南京陥落 
新装開店 伊勢佐木町名物 味自慢のふぐ料理 灘の生一本 大酒場 伊勢ぶらにはぜひ一度
ヒゲのおかめ本店 中区伊勢佐木町五丁目角 明朗なる女中入用」
掲載:昭和12年12月 
昭和13年元旦の広告
元旦号には名士や企業などが新年を祝して広告を掲出するのだが、この年は前年の南京陥落を受けて、戦勝新年、国威宣揚の勇ましい言葉で一年がスタートした。

内容
「賀  戦勝新年
国威宣揚 謝皇軍奮闘」
掲載:昭和13年1月 
宇津救命丸の広告
現在に続く宇津救命丸は、夜泣き、疳の虫に効く家庭常備薬として400年以上愛されてきた薬である。現在は宇津救命丸株式会社が製造販売している。当時は、問屋ルートで販売していため、総合薬品卸売問屋である玉置商店が、扱っていたものと思われる。昭和6年からこの名称となった。コピーには「健康の凱歌」、「祖国日本」という言葉が躍り、イラストには歩兵銃と鉄兜を背にした子供を描くなど世相を反映したものになっている。


内容
「宇津救命丸 戦捷の新春(はる)を迎えて
愛児にも健康の凱歌が声高く叫ばれる時です。宇津救命丸に培われた力強い発育と、寒さに打勝つ抵抗力が、風邪引かず、病気知らずの強い身体を創りあげるからです。
弱い児を丈夫に 宇津救命丸は祖国日本の栄えある小児薬です。その快よい薬効はお子様の胃腸と呼吸器の抵抗力を増し、体質を改善するのみでなく、疳、虫気、チエ熱、消化不良、感冒、百日咳、ハシカ等に和漢薬独特の効果を充分に発揮します。金色小粒の服み易い一粒一粒に愛児を護る科学の魂が籠っています。
売価・二十銭より十円迄の各種 薬店百貨店薬品部にあります
東京 大阪 株式会社 玉置商店」
掲載:昭和13年1月 
野澤写真館の広告
野沢写真館をネットで検索すると、同住所地に合資会社野沢写真館と出てくる。現地は、野澤屋(現カトレヤプラザ)の隣のキニヤビル内であるが、野澤つながりで何か関係があるのだろうか。

内容
「戦勝のお正月には 野澤写真館へ 
良く安く設備は代表的
伊勢佐木町一丁目 電話(3)5885 5985」
掲載:昭和13年1月 
パラダイスの広告
現在もこの辺りには風俗系の店が多く、同名の店もある。当時のパラダイスはどういうお店であったのだろうか。麗人募集という文句も時代を感じさせる。

内容
「戦捷新年の祝杯は パラダイス
麗人募集 中区末吉町 伊勢佐木町二丁目裏通り」
掲載:昭和13年1月 
割烹 か祢多の広告
この割烹店については情報がなく、詳細は不明である。広告を出しているくらいなので、それなりの店であったと思われる。 コピーの「浜の日本橋花街」とは、横浜における東京日本橋の花街という意味で、この辺りは賑やかな花街であったことが伺える。旗竿付きの日章旗、旭日旗で囲むオシャレなデザインである。

内容
「浜の日本橋花街
戦勝新年 割烹 か祢多 御宴会に御集会に
電話(3)一六八四」
掲載:昭和13年1月 
昭和14年元旦の広告
元旦の紙面を飾る挨拶広告のタイトルイラストであるが、昭和13年元旦と同じデザインである。 前年10月の漢口陥落を受け、今年も戦勝新年を迎えた。

内容
「賀
戦勝新年
国威宣揚 謝皇軍奮闘」
掲載:昭和14年1月 
割烹可ね田の広告
二つ前の広告も割烹「かねた」であるが、別のお店であろう。 キャッチコピーは「浜の名所・・・味の可ね田」であり、温泉風呂を兼ね備えていた。 これは、元旦のあいさつ広告であるが、戦勝を祝したあいさつ文である。

内容
「奉賀戦捷之新春 昭和十四年元旦 関外末広町
割烹 可ね田 鎌田久蔵
 電話(3)四八九、二四二三」
掲載:昭和14年1月 
昭和14年元旦の広告
同じく、元旦挨拶広告の題字であるが、戦勝を祝したものである。 「長期建設」という言葉は、漢口陥落後に多く使われるようになった言葉(標語)で、使われ方から考えて、漢口は陥落したが、今後の長期戦に備えて、軍需産業を中心とした経済、産業体制を構築する、そのために経済や文化を統制していくことを意味したものと理解している。

内容
「長期建設 祝・戦捷の新春
衆議院議員 八並武治 前衆議院議員東京市会議員 坂本一角 東京市四谷区長 石森勲夫 〜 」
掲載:昭和14年1月 
昭和14年元旦の広告
これも同様の新春挨拶広告のタイトルバナーであるが、正月らしいイラストを背景として、日本軍の連勝を祝福したものとなっている。挨拶は、戸塚町、本郷村、豊田村の三役と議員が名を連ねている。


内容
「謹祝皇軍連勝新年 皇紀二五九九年
 〜 」
掲載:昭和14年1月 
寿美容院の広告
前年の10月には、武漢三鎮攻略戦に勝利し、更に徐州占領など連戦連勝の戦況のなかで、昭和14年の新年も「戦勝の春」という表現があちこちで用いられている。 これは、最新設備を備え、美容報国を目指した美容院としてハマの女性に絶賛されていた壽美容院の新春広告である。


内容
「パーマネント大ホール 謹んで戦捷の春を壽き申し候 連日混み合いまして不行届の点は御許し下さいませ  殊に日本髪御客様には申訳御座いません。御叱りなく御引立の程願い上げます
壽美容院 イセサキ町・有隣堂裏」
掲載:昭和14年1月 
割烹可ね田の広告
かねだは昭和14年にも、戦勝を祝した年賀広告を掲載しているが、昭和16年は、なぜか、店の名前を出していない。割烹とのみ掲載している。

内容
「謹んで戦捷の新春を奉賀候  昭和十六年元旦
 関外末広町 割烹 鎌田久蔵」
掲載:昭和16年1月 
仁丹の広告(シンガポール陥落)
昭和17年2月15日のシンガポール陥落を祝した広告、英領であったシンガポール攻略は、太平洋戦争の緒戦のマレー作戦の最終目標であった。

内容
「祝 シンガポール陥落
勝鬨は世紀を震撼させて シンガポール遂に潰ゆ 東亜侵略の大要衝を屠る 燦たり 神速皇軍 鴻図愈々新段階 銃後一丸 更に凛乎国路を往かん  森下仁丹本舗  銃後に 戦線に」
掲載:昭和17年2月 
丸見屋商店の広告(シンガポール陥落)
ミツワ石鹸で知られた丸見屋商店の翼賛広告。

内容
「祝 シンガポールに凱歌あがる 一億の決意 いよいよ固し 進め 貫け 米英に 最後のとどめ刺す日まで
十五年の歳月 二千万ポンドの巨費を投じて 不落と号した 敵の牙城は、百年吸血の夢と共に 崩れ去った。 然し 戦は 真にこれからであり、銃後の我等は 鉄石の体力と気力を奮って 更に職域奉公の誠をいたすべきである。我等はこの新たなる決意を誓うと同時に、大東亜共栄圏の一翼を担う 銃後産業人として 生産力の増強に努め、商道の本義に徹して 奮励努力 以て聖業を翼賛し奉る。
ミツワ石鹸 ミツワ肝油ドロップス ゼオラ薬用歯磨 ミツワ家庭薬 サーワクリーム ミツワ各種葡萄酒   本舗 丸見屋商店」
掲載:昭和17年2月 
若狭光学研究所の広告(シンガポール陥落)
大正13年創業の日本最古のレンズメーカー。外国製に依存している光学機器の現状を嘆き、その脱却を目指した。場所柄、横須賀の海軍施設向けのレンズ製造を行っていた。

内容
「祝 新嘉坡陥落
この感激を増産へ!戦いぬこう大東亜戦!
高級光学機械器具
分光計・屈折計
光度計・干渉計
精密工学計器製造
神奈川県逗子町 株式会社 若狭光学研究所」
掲載:昭和17年2月 
平塚市長・議長の広告(シンガポール陥落)
シンガポールは、新嘉坡、新加坡、星嘉坡、星加坡、星州、星港、昭南島などと漢字表記された。因みに、京浜急行電鉄の北久里浜駅は昭和17年の開業当時、まさに「昭南駅」という駅名であった。

内容
「祝 星港陥落 平塚市長 原田啓治
祝 星港陥落 平塚市会議長 杉山昌夫」
掲載:昭和17年2月 
浦郷地区の広告(シンガポール陥落)


内容
「祝 星港陥落
追浜第二町内会長 福智義一 追浜第三町内会長 内堀新三郎 
追浜第四町内会長 坂本清右衛門 追浜第六町内会長 鈴木徳治郎 
追浜第七町内会長 高橋長吉 追浜第八町内会長 川口庄兵衛
中沢歯科医院 横須賀市浦郷町一、一三三 生魚 魚金旅館 横須賀市追浜駅前 電話田浦三六〇番 生菓 浜田支店 横須賀市追浜銀座通 
安本彌太郎 横須賀市浦郷三四一番地 電話田浦三一四」
掲載:昭和17年2月 
船越地区の広告(シンガポール陥落)
船越地区(現在の京急田浦駅周辺)は、海軍工廠造兵部を中心に、様々な海軍施設が集まる海軍のまちであった。よって、当時は追浜より賑やかな街であり、皆ケ作には花街もあった。

内容
「祝 新嘉坡陥落
田浦芸妓組合 電話田浦一六二・二〇六 
船越皆ケ作睦保健組合 電話田浦七一番 
追浜第四町内 銀星会第二十 二十八隣組 
海軍指定 釜成屋食堂 釜成屋牛肉部 電話田浦二四八 
米酒薪炭 小川要 船越通 電話田浦一一五番」
掲載:昭和17年2月 


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