広 告

社 会

広告(主に新聞広告)は、その時代の世相を反映しているため、当時の社会を理解するのに格好の材料となる。
戦争中の広告は戦時広告と呼ばれ、国民の戦意高揚に大きな役割を果たしていた。特に昭和15年の新体制運動に呼応して始まった「献納広告」はその代表である。
*献納広告とは、国策に協力し、時局宣伝を無償で掲載するもので、第一号は昭和15年8月1日朝日新聞に掲載された明治製菓の贅沢は敵だという趣旨の全三段広告と言われている。
ここでは、当時の新聞広告を洗い出し、軍や戦争を利用した広告、逆に軍や戦争遂行に協力した広告など戦争遺跡というべき広告を紹介する。出来るだけ業種別に分類しているが、ジャンル分け出来ないものをこちらに集めている。

花王石鹸の新年広告
現在の花王株式会社は、明治20年長瀬富郎が日本橋馬喰町に「長瀬商店」を開店し、石鹸や文房具などを販売したのが創業であり、大正12年に石鹸の生産を開始、大正14年に「花王石鹸株式会社長瀬商会」設立し現在に至る。
この広告は、年頭挨拶としての広告で、主要なお得意様の名を列挙している。
内容を見ると、大学医学部や病院など保健衛生関係施設のほか、陸海軍の組織が網羅されているところが興味深いし、朝鮮、満州、台湾が日本の領土であったことが実感できる。
また、順不同とは書かれているが、掲載順を見ると一応当時の順列が理解できる。

内容
「謹賀新年 東洋第一 花王石鹸(カオーセッケン)
永年の御用命を感謝し奉る 品質本位
陸軍省殿 海軍省殿 鐵道省殿 逓信省殿
東京帝国大学医学部殿 京都帝国大学医学部殿 東北帝国大学医学部殿 九州帝国大学医学部殿 北海道帝国大学医学部殿 京城帝国大学医学部殿 新潟医科大学殿 岡山医科大学殿 千葉医科大学殿 金沢医科大学殿 長崎医科大学殿 熊本医科大学殿 大阪医科大学殿 名古屋医科大学殿 京都医科大学殿 満州医科大学殿 慶應義塾大学医学部殿 東京慈恵会医科大学殿 日本医科大学殿 東京女子医科専門学校殿
近衛師団各聯大隊殿 第一師団各聯大隊殿 第二師団各連大隊殿 第三師団各連大隊殿 第四師団各連大隊殿 第五師団各連大隊殿 第六師団各連大隊殿 第七師団各聯大隊殿 第八師団各連大隊殿 第九師団各連大隊殿 第十師団各連大隊殿 第十一師団各連大隊殿 第十二師団各連大隊殿 第十四師団各連大隊殿 第十六師団各連大隊殿 第十九師団各連大隊殿 第二十師団各連大隊殿 関東軍各隊殿 台湾軍各聯大隊殿 支那各地駐屯軍各隊殿 南満州独立守備隊殿 全国各衛戍病院殿
陸軍各学校殿 陸軍各工廠殿 陸軍各兵器廠殿 陸軍科学研究所殿 陸軍衛生材料廠殿 陸軍軍馬補充部各支部殿 陸軍被服廠殿 陸軍各偕行社殿
横須賀鎮守府殿 呉鎮守府殿 佐世保鎮守府 舞鶴要港部殿 馬公要港部殿 大湊要港部殿 鎮海要港部殿
第一艦隊殿 第二艦隊殿 練習艦隊殿 支那沿岸警備各艦隊殿 横須賀海兵団殿 呉海兵団殿 佐世保海兵団殿 横須賀海軍病院殿 呉海軍病院殿 佐世保海軍病院殿 海軍各要港部病院殿 海軍各学校殿  海軍各航空隊殿 海軍各工廠殿 海軍造兵廠殿 海軍各水交社殿 海軍各下士官兵集会所殿 海軍各共済組合殿
東京鐵道局殿 名古屋鐵道局殿 大阪鉄道局殿 門司鉄道局殿 仙台鉄道局殿 札幌鉄道局殿 南満州鐵道株式会社殿 朝鮮鐵道局殿
伝染病研究所殿 理化学研究所殿 台湾総督府各医院殿 朝鮮総督府各医院殿 樺太庁各医院殿 各府県立病院殿 全国各地公市立病院殿 日本赤十字社各病院殿 恩賜財団済生会各病院殿 支那各地同仁会各病院殿 東京横浜同愛記念病院殿 財団法人泉橋病院殿 聖路加国際病院殿
各地方専売局殿 日本郵船株式会社殿 大阪商船株式会社殿 日清汽船株式会社殿 北海道炭鉱汽船株式会社殿 八幡製鉄所殿 室蘭製鋼所殿 三井鉱山株式会社各購買殿 三菱鉱業株式会社各購買殿 住友合資会社各工場購買殿 日本鉱業株式会社各購買殿 古川鉱業株式会社各購買殿 全国各紡績工場殿 全国各製紙工場殿 全国各造船所殿 全国各消費組合殿 全国各学校購買部殿(御芳名次第不同)
東京市日本橋区馬喰町 花王石鹸本舗株式会社長瀬商会」
掲載:昭和7年1月5日 

花王石鹸の広告
当時、現在ではあまり馴染のない東洋第一という冠が良く使われた。アジアのトップに君臨しても、まだまだ欧米には太刀打ちできない時代であった。
「一志報國」や「至誠」、「ご奉公」などの言葉に加え、日の丸と衛兵所に衛兵の姿があしらわれる(しかも半景)など、お国のために戦おうという雰囲気を漂わせている。
内容
「東洋第一 花王石鹸
報國の念願 四十余年を一貫して一個の花王石鹸に至誠を打込んで参りました長瀬商会でございます 良く…安く… これがみな様へのご奉公と存じまして、日本で唯一つの原料精製装置から科学的大量生産の作業に至るまで、只管一志報國の念願に他なりません 御愛用を願ひます
純粋度・九九・四% 正価一個十銭」
掲載:昭和7年1月 

バー軍艦の広告
鎌倉駅前に開店したバーの求人広告。新聞の五行広告に出されたもの。
名前にご注目ください。これがなぜ鎌倉駅にということですが、当時、鎌倉には多くの海軍士官が居住していたためと思われます。
内容
「鎌倉 バー軍艦
開店に付女給数名大至急募集。二十歳前後優遇す
 御来談は横浜市長者町六ノ九十八 バービワコ又は鎌倉駅前バー軍艦」
掲載:昭和7年7月 

愛國歌募集の広告
昭和8年は既に未曾有の非常時と言われていた。国威昂揚のために愛国歌を国民から募集しようというもの。今の講談社の企画。

内容
「愛国歌大募集 真剣のお願い!
全日本も皆様に申し上げます。いつの時代、いづれの国に於ても、その国民が、その祖国を愛する事は人情の自然でありますが、わけても吾々日本人の熾烈旺盛なる愛国心は、父祖伝来の大和魂に宿り、或は至高至純の聖火と燃え、或は壮烈鬼神を哭かしむる受難の華と散って、ただ一念皇国の為に総ての国難を打開し、遺憾なくその精華を発揮し来つたのであります。かくて築き上げたものは、実に光輝ある三千年の歴史であり、世界無比の国体であります。
今や、わが国は未曾有の非常時!この秋、この際、皆さまの胸奥には、必ずや忠君の至誠、祖国愛の熱血が□勃として沸き立ち、抑えんとして抑え難きものがあると信じます。乃ち小社は、此の機会に於て益々愛国の士気を鼓舞し、東西に輝く民族的自覚を強固にすべく、茲に「愛国歌」大募集を計画致しました。
是非々々皆さまの魂に躍動する愛国的大感激を、或は軍歌に、或は民謡に、或は小唄に童謡に、あらゆる詩歌の形式に詠出して下さい。
小社は皆様の御苦心の「愛国歌」を、広く非常時日本の津津浦々にひろめ、この尊くも雄々しき国民感情を彌が上に昂揚し、よって以て平素の念願たる「雑誌報国」の一助に致したい存念であります。
どうぞ皆様、此際祖国の為に、非常時日本の為に、特に奮い起ち競い立って続々応募せられん事を切望致します。 キング・少年倶楽部 婦人倶楽部・少女倶楽部 現代・幼年倶楽部 講談倶楽部・雄弁 冨士 発行所 大日本雄弁会講談社 敬白
募集種目〇国民歌〇軍歌〇長詩〇民謡〇童謡〇小唄等の形式によるもの、愛国の精神を鼓舞するものなら何でも結構〜
審査(五十音順)詩人北原白秋先生 詩人西條八十先生 文学博士佐佐木信綱先生 文学博士中村孝也先生 作曲家山田耕作先生 本社編□局長 淵田中良
賞金〇一等 一千円(二百円宛五名)〇ニ等 一千円(百円宛十名)〇三等 一千円(二十円宛五十人)〇四等 一千円(五円宛二百人)〇五等 一千円(一円図書券一千人)
応募規定◇誰にも分かりよい文句であること
◇長さは五節以内、容易く暗記し得るもの(一節の長さはなるべく五六行まで)◇一人にて何篇応募するも可、但し一篇毎に 別綴にし住所氏名明記の事◇要旨は原稿紙たること◇原稿は一篇毎に歌の題名をつけ裏に種目を朱書すること(例えば軍歌、民謡の如く)◇応募原稿は一切返却致し兼ねます◇当選篇の著作権その他一切の権利は本社に帰属す
■応募締切 昭和八年四月三十日
■送稿宛名 東京本郷大日本雄弁会講談社 愛国歌係とすること
■当選発表〇キング〇婦人倶楽部〇講談倶楽部〇雄弁〇現代〇富士 右六雑誌八月号誌上
●少年少女より愛国歌大募集 第二の国民たる児童諸君の愛国心の上に効果ありと信じます。御子弟方の御応募を切望して止みません。詳細は少年倶楽部、少女倶楽部、幼年倶楽部五月号に発表致します。」
掲載:昭和8年3月 

ミツワ石鹸の広告
鉄兜を被り、銃剣付きの歩兵銃を手にした兵士に扮した子供が、皮膚を守るという、石鹸を兵士に見立てた、当時ならではの表現である。
万延元年に創業した丸見屋(現ミツワ石鹸(株))が明治43年に販売を開始した石鹸であるが、平成26年12月31日をもって廃業した。 左下部には、奉祝建国祭のマークがつけられている。
内容
「お子様方や御婦人方のミツワ石鹸
お子様達へのお答え 何故ですって?それは、作用がとてもやわらかでお肌を荒らさないからです
御婦人方へのお答え お化粧に…ミツワ石鹸は、肌を整える作用がありますから、従って白粉ノリを良くします  家計簿に…ミツワ石鹸 使用中途の溶崩れずに永保ちします故、御家庭用として経済的です
マモレ!ヒフ   本□東京両国丸見商店
掲載:昭和11年2月 

シボレーの広告
シボレーとはアメリカゼネラルモータースの自動車ブランドで、日本では昭和2年に日本ゼネラルモータース株式会社が設立され販売が開始された。 当時の科学技術の粋を集めた日本海軍の戦艦と並べることで頑丈で安全なことをアピールしている。
内容
「安心して乗れるシボレー
ご家族づれでタクシーにお召しになる時には、是非とも安全なシボレーにお乗り下さい。シボレーの頑丈な全鋼ボデーは、どんな場合でも絶対安全で、しかも乗心地は天下一品です。
謹告 弊社ハ緊迫セル時局ニ鑑ミ此際弊社製自動車販売価格ヲ特別ノ事情アラザル限リ値上ゲ致サザルコトニ決定致シマシタカラ何卒今後共宜敷御引立ノ程願上ゲマス右謹告致シマス
 昭和十二年七月二十九日 日本ゼネラルモータース株式会社 御得意様各位
シボレー特約販売店 神奈川自動車株式会社 横浜市中区元町二ノ三二 電話長者町(3)6860番」
掲載:昭和12年8月 

蓄音機の広告
支那事変勃発早々の昭和12年8月から10月にかけて日本軍航空隊は中国各地の爆撃を行い大きな戦果を挙げていた。「爆撃」というキャッチには、そんな時代背景がある。また、戦線での慰安に最適という文言からは戦時下という社会情勢が伝わってくる。
日本蓄音機商会とは、明治43年に設立された日本初のレコード会社で、昭和21年に日本コロムビアに改称された。
物品特別税とは、支那事変の経費に充てるため昭和12年8月に新設された北支事変特別税の中の1つで、 奢侈品や娯楽品に課せられた消費税である。対称は、貴金属、写真機、フィルム、蓄音機、レコード等であり税率は20%。なお、この頃の公務員の初任給は75円。
内容
「新発売 コロムビアポータブル 第二五〇号 製造販売元 株式会社 日本蓄音機商会
物品特別税による増加額を含む ¥55.
爆撃! 同値頃の類似器を果然爆撃し去った新鋭器です!家庭に戦線に、本器こそ最大の慰安中心です。 最寄特約店にて御視聴下さい!」
掲載:昭和12年10月 

洋服店の広告
士官は任官する際は自分で軍服を用意しなければならなかった。 従って、このような軍服を扱う洋服店が沢山あったのだろう。「ザキノピカ一」とあるが、当時から伊勢佐木町を「ザキ」と呼んでいたことがわかる。
内容
「軍服団服は秋冬洋服の ナンデモ有ル洋服のストック堂 
安イノデザキノピカ一 時節柄特に廉価にて御奉仕申上げます 処分品がタクサン出ました
伊セ佐木町通り四丁目交番角 電話長者町3四二八六 振替東京一三三三六七」
掲載:昭和12年10月 

菊一刀剣店の広告
菊一という刃物店は全国にいくつか存在するのだが、野毛のこのお店は現存していないようである。第一師団購買会指定や軍刀製造など現在ではありえない言葉が並んでいる。横須賀に支店があるのは、海軍の需要が多かったのだろう。 刀の鍔のデザインがいかにも刀剣店らしい。
店主は、昭和13年9月に、陸軍砲兵工廠軍刀修理団の作業主任として渡支され、 二か月余りで、257振の軍刀を修理されたという。
内容
「菊一刀剣店
第一師団購買会 神奈川県庁購買会指定
陸海軍軍刀製造 刀剣売買研白鞘商 高級和洋諸刃物
本店 横浜市中区野毛町三丁目 電話長者町(3)三一八番
支店 横須賀 電一五八七番 大宮 電一一六番 原町田 電四八番」
掲載:昭和13年3月 

菊一軍刀製作所の広告
軍刀の広告。菊一刀剣店は横浜中区のほか、東京町田、横須賀、大宮に支店があった。
内容
「菊一式軍刀  陸海軍軍人に告ぐ
軍刀の選定に就ては各位の最も御苦心の事を存じます。祖先伝来の宝刀でも研べりしたもの疵の有るものは絶対にいけません。所長は昨秋中支那方面に軍刀修理団作業主任として従軍し数百振を修理の結果其欠点を完全に改良し特許出願中の菊一式軍刀の完成を見るに至りました ◇弾丸が当たっても、鞘の中に水が入っても差支なき外装を致しております。〜」
掲載:昭和14年9月 

トヨタ自動車の映画会の広告
自動車と戦争を結びつけた広告。小学校を借りて自動車販売を促進するような映画会を開催したもの。双発の爆撃機とトラックを対比させることで、自動車も最新技術であることをアピールしているであろう。
内容
「電撃戦と自動車 映画大会
 入場無料
プログラム
日本ニュース ミッキーの自動車大暴れ 地底の□城 生きている自動車 摩擦 動物病院 木炭を裁く
八月十二日 神奈川区幸ケ谷町 幸ケ谷小学校(自午後七時 至午後九時)
八月十三日 中区山王町 日枝小学校(右同)
八月十四日 磯子区磯子小学校(右同)
八月十五日 横須賀市大滝町 諏訪小学校(右同)
八月十七日 川崎市宮前町 宮前小学校(同右)
主催 神奈川トヨタ販売株式会社 後援 トヨタ自動車工業株式会社 」
掲載:昭和15年8月 

防空・防諜思想普及の広告
横浜貿易新報社が国防国策の遂行に寄与するために主催した防空・防諜思想の普及と知識の涵養を図るための催し。
内容
「▲落下傘降下実演大会
一、期日 昭和十五年九月二十一日(土曜日)午後二時より同四時迄、雨天順延
一、会場 横浜市中区北方地先埋立地(市電、小港、市バスは小港橋下車)
一、防空思想普及及に関する講演
一、落下傘降下実演(爆弾投下、煙幕展張、動物パラシュート降下)
一、警防団模範訓練
一、入場無料(誉の家御遺族には御招待席を設く)
▲防諜標語懸賞募集
一、応募規定
1 標語 観覧明瞭なること
2 投稿 官制葉書を用い一枚一標語に限る(応募數に制限なし)
3 応募者 住所氏名を明記し十月十五日迄に横浜市中区住吉町一丁目
4 賞 一等(一名)二百円 △二等(一名)一百円 △三等(三名)各三十円宛(但当該作品なき場合は分割することあるべし)
5 審査 左記審査員に依り審査を行い当選者を十一月一日の本紙上に発表す
 審査員 関係方面有力者十数氏(決定次第発表)
6 当選標語 は本社に於て「小ポスター」を作成し県警察部の指示に依り全県下の工場、会社、倉庫、銀行、店舗、停車場、交通機関、其他集合場所に無料配布す
後援 神奈川県 横浜市 川崎市 横須賀市 横浜憲兵隊 軍人援護会神奈川県支部 横浜商工会議所 在郷軍人会横濱連合会 愛国婦人会神奈川県支部 大日本国防婦人会横浜連合会」
掲載:昭和15年9月 

日本会館の広告
日本会館についての詳細は不明であるが、通常の宴会以外に軍人の宴会を誘致しようとした広告であり、 贅沢が不徳とされるご時世、宴会も減少し、経営のためにはこういった告知が必要となったのであろう。
内容
「川崎 日本会館
皇軍 将兵出征入営軍送迎会□には特に御便宜御取計らい申上げます」
掲載:昭和16年1月 

兵士や労働力とするために、産めよ増やせよと大勢の子供を産むことが奨励され、子だくさん家庭は栄誉を受けた時代。
全国の優秀子女5名以上の優良家庭を表彰するという企画である。民間企業の主催であるが、厚生省後援のお蔭か、問い合わせは市町村、学校もOKとなっており、国を挙げての全国的なイベントの様相である。
賞をみると朝鮮、樺太、台湾が領土であったことを実感する。

内容
「よい子強い子お国の宝  日本優良家庭表彰会
振って応募を! 大東亜十億の指導者たる可き我が大日本民族の大飛躍に際し体力学業共に優秀なる子女多数を擁する優良家庭を日本全国に求めて審査表彰し、国民の家庭育英両方面に於る関心を振起し、国民資質の向上と厚生国策に寄与せんとする我国最初の試みでありますから、何卒漏れなく応募下さいます様お願い申上げる次第であります。
日本優良家庭表彰会会長 わかもと本舗栄養と育児の会社長 長尾欽彌
【応募資格】大日本帝国臣民にして一配偶者大正年間以後出生の子女五名以上(嫡出子女)あり、病死者、廃疾者、悪質□□症患者、刑法上の犯罪者を含まず少なくとも五名以上が学業成績共に出席率優良なること
【応募方法】詳細は最寄りの市町村長、国民学校長若くは東京市芝公園わかもと本舗内日本優良家庭表彰会へ御問合せ下さい
【期日】昭和十七日二月二十八日迄受付【発表】昭和十七年五月末日の予定〜
授賞 厚生大臣賞(最優秀三家庭) 朝鮮総督賞・台湾総督賞(各一家庭) 北海道長官賞・樺太長官賞(各一家庭) 府知事賞・県知事賞(各一家庭)
主催 わかもと本舗栄養と育児の会 後援 厚生省」 
掲載:昭和17年2月 

三菱鉛筆の広告
UNIでおなじみの三菱鉛筆は、天下の「三菱」とは無関係の筆記具メーカーで、 明治20年に眞崎鉛筆製造所として創業した。明治20年には三菱ブランドを登録しているが、これは三菱財閥の商標登録の10年前である。因みに、昭和27年に社名を三菱鉛筆に変更している。 この広告は、シンガポール陥落直後に出されたものであるが、既に「体当たり」の言葉が登場しているのが興味深い。 イラストは不鮮明でよくわからないが、どうやら爆弾に乗って体当たりする風である。
内容
「聖戦に民一億の体当たり
三菱鉛筆」
掲載:昭和17年2月 

東京急行の広告
昭和13年に施行された陸上交通事業調整法によって、昭和17年5月に、京浜電気鉄道と小田急電鉄を合併し、東京急行電鉄に社名を変更した。さらに、昭和19年5月に京王電気軌道を合併し、いわゆる大東急となった。
戦時下、輸送力増強は 緊喫の課題であり、増車、増便、スピードアップなどのほか、本広告のような乗降の統制などが図られた。
戦後の昭和23年6月に、京王電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄を分離した。
内容
「国策協力 輸送力確保 産業増進  
東京急行電鉄
◎乗る時は左側から
◎乗り降りはお早く」
掲載:昭和17年10月 

防衛兜の広告
日本軍では、戦闘用の鉄兜は、九〇式鉄帽(後継98式鉄帽)であるが、民間用のヘルメットとして販売されていたもの。軍用と違い品質の面では差があるが、用途としては広告にあるように防空・防火であり防空訓練や空襲の際に着用したのであろう。
内容
「財団法人日本警防協会御推奨品 防空防火用防衛兜  価格一個 (公)五円六十銭也 東京市蒲田区下丸子町
製造所 三国興業株式会社 横浜市中区港町吉田橋際
神奈川県特約店 徳永洋品店 電話長者町五七一三番」
掲載:昭和18年3月 

社交場の広告
いわゆるキャバレーの広告であるが、時節柄まずは「増産」の文字、そして、本来目的の「慰安」が小さく続く。夜の商売にも戦争はのしかかっている。また、店名も敵性語追放から漢字に改称している。
内容
「増産!!  然シテ一日ノ御慰安ニ
伊勢佐木町二 社交場 ナイトパレス 改メ 光輪
電話1197・6835」
掲載:昭和18年4月 

海員養成所の広告
海員養成所とは…
海軍省から高等小学校卒業者を対象とし、短期間の教育で海軍下士官として任用できる普通船員の幹部養成学校として海員養成所を設置すべきとの提案がされた。 当時、海運が好況であること、更には戦争が勃発し多数の優秀な船員が必要であったことから、短期間で普通船員の幹部を養成できる海員養成所の設置は海運業界からも望ましいことだった。 1938年(昭和13年)当時、海運を管轄する官庁は逓信省管船局であり、この年の秋には海員養成所の設立の方針を固め、手始めに全国に4か所海員養成所を設置することになった。1939年(昭和14年)7月8日、海員養成所官制が公布され、全国各地に海員養成所が設立された。(ウィキペディアより)

内容
「官立 私立 普通 海員養成所 生徒採用 東京日本橋白木屋五階 特殊法人 船舶運営会 厚生省、逓信省
雛鷲志願にもれても失望するに及ばぬ 商船隊のつづかぬ軍は後羽なき鳥の如し 海軍でも陸軍でも空軍でもである  商船船員の体格基準は幾分ゆるい 青少年日本男子は船員として軍につづけ 船員が不足では勝ち抜くには困難が多い 国家は軍に準ずる栄誉待遇を船員に与える 父兄指導者殊に母性の理解を期待す 後退船員は勇躍直ちに船上に還れ(満十四歳以上各地国民職業指導所と船舶運営会支部出張所へ…返信料不要) 船員
電話1197・6835」
掲載:昭和18年9月 

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