若獅子の塔(若獅子神社)

軍事遺物
戻る

陸軍少年戦車兵学校出身戦没者の慰霊・顕彰と我が国の平和と繁栄を祈念して、昭和40年12月1日、学校跡地に、同窓生によって建立された慰霊塔である。塔の基部には、若獅子の像と昭和天皇の御製が、左面には塔由来記が刻されている。
塔の右手には、「塔の特徴と概要」を著した碑、前面には「若獅子の塔」の碑が建立されている。
所在:若獅子神社(富士宮市)

「若獅子の塔
御製  國乃ため いのちささけし 人々の ことを思へは むねせまりくる
明治神宮宮司従二位勲一等 甘露寺受長謹書」

「若獅子の塔由来記
 美しい我が国土の象徴 千古にし仰ぐ霊峰冨士の麓 この地こそ 日華事変 大 東亞戦争を通じ 若獅子の名のもとに活躍した陸軍少年戦車兵揺籃の地であり 又その魂のふるさとである  日本陸軍はノモンハン事変後 近代戦の中核である戦車隊の拡充強化を図るた め 昭和十四年十二月 千葉陸軍戦車学校に生徒隊を設け少年戦車兵を教育した  爾来戦局の熾烈なるに伴い 昭和十七年八月 この地に陸軍少年戦車兵学校を 移し本格的な養成が行われた  想えば七年の短い歴史のなかに 四千四百余の紅顔の少年が 若き情熱にもえ 朝夕富士を仰ぎ 心身を鍛え 学業を修め 戦車を駆使してひたすら猛訓練に励 み 国軍の中堅幹部として勇躍この地を巣立っていった  そして大陸の曠野に 南海の島々に 或は北辺の草原に勇戦奮斗し 赫々たる 武勲を誇ったのであるが 六百余の友は祖国の平和と繁栄を念じつつ 莞爾とし て悠久の大義に殉じたのである  戦火おさまって二十年 いま秋風蕭條たるこの地に立ちて 往時を偲び亡き友 を追慕するとき 萬感胸に溢るるを禁じ得ないのである  その御霊を慰め 殉国の至誠を輝ける偉勲を永く後世に傳え 併せて真の平和 を祈念し われら同窓生相はかり なお数多くの御賛同と御支援により ここに 若獅子の塔を建立する
   昭和四十年十二月一日  陸軍少年戦車兵学校同窓生一同」
(右碑)
「塔徴
聳ゆる直ぐなる塔は純忠一途に國に殉じた若獅子の魂が天に連なる崇高な姿であり 神像は 千仭の嶮崖に挑む若獅子の姿でまさに初陣に赴かんとする烈々たる氣魄をあらわしたものである」
(左碑)
「若獅子の塔概要
名 称 若獅子の塔
御製謹書者 明治神宮宮司従二位勲一等 甘露寺受長氏
若獅子の像製作者 東京芸術大学名誉教授 日展審査員 内藤春治氏
塔設計者 金沢建築研究所 東京芸大元教授 金沢庸治氏
塔由来記 元陸軍少年戦車兵学校々長 陸軍中将 玉田美郎
塔名謹書者 元陸軍少年戦車兵学校々長 陸軍少将 立古睦吉
建設地 静岡県富士宮市上井出二三一七−一 元陸軍少年戦車兵学校材料廠跡
敷地面積 約一、六五〇坪(約五、四四五平方米)
塔本体 鉄筋コンクリート造り
高 さ 地上十六、七米
着 工 昭和四十年八月十日
竣 工 昭和四十年十一月三十日
土地提供者 元陸軍少年戦車兵学校教官 榊原要之助、山本四郎、諏訪繁蔵 窪田友次、真坂義七、島崎恒喜 富士開拓農業協同組合」

(若獅子の塔碑)
(正面)
「若獅子之塔」
(裏面)
「昭和四十年十二月吉日建立 元陸軍少年兵學校同窓生一同 第三期生 小野田雪堂書」