金澤君墓表(東福寺)

軍事遺物
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天保三年(1833年)生まれで、幕府に仕えていたが、明治新政府にも出仕し横須賀造船廠に勤めた金澤喬之助君を顕彰する碑。明治25年7月建立。三好陸軍中将による篆額「金澤君墓表」の下に碑文が刻まれている。なお、碑石は関東大震災で倒れたものか、縦に3つに割れており、金具で修理してある。
金澤君墓表 陸軍中将正三位勲一等子爵三好重臣篆額
人之在世雖一言一行之美則足録以傳後況有識有能而能致力其
職者乎是金澤君之所以不可不碑而傳也君諱達聡通稱喬之助本
姓鈴木貫彦根藩籍考諱元龍妣杉山氏君以天保三年十月二日生
後為浦賀同心金澤力蔵君所子養因冒其姓嘉永六年米艦始入我
近海物情騒然幕府派兵備之君在其遣中措置得宜安政元年奉命
参軍艦製造及大砲鋳造之事明年幕府遣士人於長崎就蘭人講西
洋兵法君亦與焉當時西洋情事未明命下人皆有難色而君奮赴之
首脩太鼓科業成東歸教授諸士自此吾國軍陣鼓法一變矣既而擢
講武所太鼓師範役人始服其先見之明焉慶応中幕府聘英仏教官
於横濱學其兵制君以歩兵隊下士從事之後以功進其班位明治革
新解官歸郷居四年徴補工部省十六等出仕累遷造船中工長皆稱
其職十二年獲疾致仕終不復出二十一年五月三十日病卒享年五
十七葬于浦賀東福寺君為人温厚撲實盡力其職幕府嘉其功勞屡
賜金幣賞之遂列上士□異數也維新以後専奉職於横須賀造船廠
躬親工事意匠巧妙人稱其能配金澤氏擧二男三女長男震太郎君
嗣三女皆既適人二男吾一君幼在家今茲二十五年七月舊友相謀
刻其功績於石以傳之不朽請余誌之乃按状叙其踐歴如此
   陸軍工兵大佐從五位勲四等矢吹秀一撰 湯邪行作書
                            石工新居民蔵