水際決戦の方針
昭和19年7月、サイパン島陥落により大本営は本土決戦を想定した「捷号作戦」を決定した。 作戦に基づき、決戦の準備として沿岸築城(砲台、陣地の構築)や 特攻兵器(回天、海龍、蛟龍、震洋、伏龍、桜花など)の開発に着手した。
その後、12月のレイテ戦の敗北により、本土決戦の準備が本格化し 昭和20年4月、決号作戦が発令された。 この作戦は10月以降に関東か九州に米軍が上陸することを想定し、それまでに準備を整えることが 命じられ、関東での決戦は決三号作戦として第12方面軍が担当した。 決戦は一億玉砕の掛け声のもと、上陸した米軍を水際で撃滅することが命じられた。
作戦では房総半島へ重点が置かれていたが、三浦半島についても陸軍の独立混成第114師団と 海軍の特攻基地が置かれ、洞窟砲台や洞窟陣地などの築造が急ピッチで行われた。
これに対し、アメリカ側は日本進攻について関東上陸の「コロネット作戦」と南九州上陸の「オリンピック作戦」を計画していた。
コロネット作戦は、昭和21年3月1日、相模湾、九十九里海岸に上陸させる計画であり、 日本側の房総半島重視に対し、相模湾上陸の方に大きな戦力を割り当てていた。

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