第一海堡

<沿革>富津市
・明治14年:起工
・明治23年:竣工、28センチ榴弾砲14門、12センチ加農2門据付
・明治27年:12センチ加農2門、19センチ加農1門据付
・明治34年:12センチ加農4門を、12センチ速射加農4門に変更
・明治37年:28センチ榴弾砲6門撤去
・大正12年頃:19センチ加農1門撤去
・昭和2年:克式砲塔15センチ加農2基4門第二海堡から移設
・昭和10年頃:28センチ榴弾砲6門撤去
・昭和17年:12センチ速射加農4門撤去
・日清戦争時:28センチ榴弾砲14門、12センチ加農4門、19センチ加農1門
・終戦時:克式砲塔15センチ加農2基4門

<歴史・構造>
東京湾に築かれた三つの海堡の内で、一番陸地に近く水深4m〜6mの位置に建設された。富津元洲砲台の西方約2.5km。 関東大震災でも大きな被害は受けず、昭和20年の終戦時まで現役であった。
東京湾要塞の諸砲台のうち、明治14年8月1日の起工は、観音崎第二砲台、第一砲台に続き、3番目の早さである。 工期は、10年弱を要した。形状は南を向いたブーメラン型で、右翼が約75m。左翼が約230m、面積約23,100uである。
28センチ榴弾砲14門は左翼に、12センチ速射加農4門は右翼に、さらに機関砲10門も右翼に設置されていた。関東大震災による隆起で、干潮時に富津岬と地続きになった。

<現状>
大東亜戦争終結時は、15センチ砲塔加農2基4門の現役砲台であったが、占領軍に破壊され、そのまま現在に至っているものと思われる。
空中写真によると、中央突角部と左翼端に観測所、右翼端と左翼中央部に電灯所がある。左翼に4基の砲座が綺麗に残っているが、第三砲台と呼ばれた昇降砲架28センチ榴弾砲4門砲座、また15センチ砲塔は、突各部の破壊された部分に存在したものと推測する。
戦後、釣りのメッカとして愛されていたようだが、現在は、国有地として立入禁止となっており、不法侵入以外に内部を伺い知ることはできない。

富津岬からの遠望

出典::国土地理院ホームページhttp://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1002424

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