第二海堡

砲台マップに戻る
<概要>富津市
明治22年:起工
明治38年:海軍依託工事(水雷衛所、発電所)竣工
明治39年:皇太子殿下行啓
明治42年:貴族院・衆議院議員による視察及び実弾射撃
大正2年:15p速射加農克式砲塔4門・参式砲塔4門、斯加式(隠顕砲架)27p加農4門、克式砲塔27p加農2門竣工
大正3年:竣工
大正8年:築城部から要塞司令部へ引き渡し
大正12年:関東大震災で被災
昭和2年:除籍
昭和17年:海軍により高角砲設置
昭和20年:敗戦、高角砲台破壊
終戦時:12.7p連装高角砲2基

<歴史・構造>
・東京湾に築かれた三つの海堡中、2番目に着工し、第1海堡の西側約2,500m、水深8〜12mの位置に建設された。 人口島自体は明治32年に完成し、翌年から上部構造の建設が開始され、大正3年に竣工した。
・日清戦争時には海軍が臨時に水雷砲台、水雷衛所を設置していた。
・第一海堡と同様のブーメラン型で、右翼長270m、左翼長190m、右翼幅65m、左翼幅65m、最大幅160m、面積約41,300u。
・火砲は、明治38年に着工し、40口径15p速射カノン克式砲塔2基4門・同参式砲塔2基4門、斯加式40口径(隠顕砲架)27pカノン4門、45口径克式砲塔27pカノン1基2門及び7.5p速射カノン10門が設置され、 中央部に砲塔27pカノン、隠顕式27pカノンは右翼と左翼に2基づつ、15p砲塔カノンは、中央部砲塔27pカノンと右翼の隠顕式27pカノンの間に3基、右翼端に1基を配置した。7.5pカノンは、中央部先端の半円部分などに配置されていた。
・観測所は左翼、右翼にそれぞれ設置されていた。 大口径砲は、砲塔式、隠顕式であり、地上に現れている砲座、観測所、探照灯以外の施設、兵舎や弾薬庫などは全部地下化されていた強力な砲台であった。 また、係船場などを波浪から護るため、海堡の背面にあたる北側の海中には「く」の字の防波堤が築かれた。
・関東大震災で被害を受け、砲台も被災したことから砲は順次撤去され、除籍された。つまり、25年の歳月をかけて完成したが、たった9年の寿命であった。(第三海堡は29年の歳月を要したが、わずか2年で廃止)
・撤去された砲塔のうち、参式砲塔15pカノン2基4門は、大正15年に剣崎砲台へ、克式砲塔15pカノン2基4門は昭和2年に第一海堡に移設した。 *被災後、応急的に10pカノン4門が設置されていた。
・その後、海堡は放置されたが、海軍によって、水中聴音訓練所や高角砲台が設置され利用された。 高角砲は、12.7p連装高角砲2基が右翼の15p砲塔カノン跡に設置され、その他、25o連装機銃2基、150p探照灯3基などが設置され、太平洋戦争時には防空砲台として使われた。

<現状>
戦後、震災による破壊に加え、高角砲台も連合軍に破壊されたものと思われ、廃墟のまま島は残った。現在は、戦前から存在していた灯台(第二海堡灯台)や、新に海上災害防止センターの演習所が設置されるなど再利用されている。
しかし、 周囲の護岸の崩壊が進んでいるため、現在はコンクリート護岸ですっぽり囲う工事が進んでいるほか、左翼は演習場のための平場と化し、高台には灯台用に日本最大の太陽光発電パネルが設置されるなど、残念ながら、砲台跡は、どんどん消滅している状態である。最近は、TVで放映されたり、外から眺めるクルーズ(上陸は禁止されている)などが行われたりと、知名度が上がってきている状況もあり、砲台跡の保存が望まれる。
平成30年7月、戦争遺跡を観光資源化するという機運の高まりを受けて、国交省は、いよいよ上陸見学ツアーの試行を開始した。
平成31年春から本格ツアーを開始する予定。(課題は、地上施設は近年になってかなり破壊され、あまり見るべき場所がないように感じる。地下施設の見学が必要。また少しの波浪で船が着岸できないので桟橋の改善が必要)
現状(平成28年)
昭和52年:出典:国土地理院ホームページ
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=994078
砲台配置図