第三海堡

<概要>横須賀市走水
・明治25年:起工
・大正7年:七年式十五センチ加農砲4門据付竣工
・大正9年:七年式十センチ加農砲8門据付竣工
・大正10年:竣工
・大正12年:震災により損傷
・大正14年除籍
・10センチ加農8門、15センチ加農4門砲台

<歴史・構造>
海堡とは「海中に人工の島嶼を築き之に防御営造物を構築して兵備を施すものを称す」とある。つまり、人工の砲台島である。
東京湾には3つの海堡が築かれたが、富津岬よりから第一海堡、第二海堡、第三海堡である。東京湾防備のために、当時の大砲の射程では、観音崎と富津間を閉塞するのに、途中に砲台を設ける必要があったのである。
第三海堡の場所は、水深が約40mと3海堡中一番深く、潮流も早く、建設工事は困難を極めた。 建設には明治25年から大正10年まで30年もの歳月を要したが、竣工後わずか2年で、関東大震災により、倒壊、沈降し、大正14年除籍された。悲劇の海堡である。
この海堡の建設に西田少佐が生涯をかけたことは有名な話。位置的には、第一、第二海堡は千葉県、第三海堡は神奈川県に属する。
形状はしゃもじ状で、頭部は東南方向を向いており、15センチカノン砲4基が東南方向を首線にして据えられ、柄の部分の左右(北東、南西向き)に4基づつ10センチカノン砲が据えられていた。 上部構造物としては、砲側弾薬庫や観測所、電灯所、兵舎、貯水槽など陸上砲台と同じ施設が整備されていたが、年代が下って建設されたせいでほぼコンクリート造である。 多くの構造物は覆土され、地下施設として完成している。

<現状>
震災による倒壊・沈降後そのまま放棄されたが、年々沈降、暗礁化し、東京湾を航行する船舶の大きな障害となっていた。
航行安全のために、平成12年から平成19年にかけて、国土交通省により、撤去工事が行われた。その過程で引き上げられた上部構造物のうち、特徴的なもの、学術的に貴重なものが陸揚げされ、追浜の地に保存展示されている。第三海堡展示場として地元のNPO法人が市から管理を任されており、毎月第1日曜日に公開されている。
陸上の砲台施設は太平洋戦争後、破壊され、鉄扉や蝶番、手すりなどの金物は盗まれたりしてほとんど見ることができないが、戦前に海没して放棄されたため、そのまま金物類が残っており貴重である。
大型兵舎は後日、横須賀市のうみかぜ公園に移された。こちらはいつでも外観だけだが、見学できる。

昭和52年空中写真

○撤去工事を行った東京湾口航路事務所が、第三海堡の歴史や復元図をホームページで公開しています。
http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/wankou/history/index6.htm

追浜展示施設の構造物

〔大型兵舎〕

二つの兵舎と奥の連絡通路
が一体化している。

前面はイギリス積みレンガ壁と
なっている。

奥壁には連絡通路との明り
取り窓が開口してる。

連絡通路内。中央に向けて
傾斜している。

〔15センチカノン砲台砲側弾薬庫〕

正面上部には安山岩製の階
段が設けられている。

内部は2室。壁の突起は砲に
砲弾を供給する給弾口。

内部。奥は滑らかな曲面に
なっている。

給弾口内側。砲弾を揚げる
器具が残っている。

〔10センチカノン砲台左翼観測所・砲側弾薬庫〕

外観。右手の円筒部分が観測
所。左手の砲側庫と一体構造。

観測所への入口

砲側庫内部。出入口の鉄扉
も残っている

給弾口。砲弾を傷つけない
ように銅板が貼られている。

〔電燈所〕

前面。中央開口部が出入口。

背面。中央部が電燈昇降部。

鉄製電燈台座が残っている。

内部階段

〔地下通路〕

観測所から護岸に出るため
の地下通路。

斜度が8%付けられている。

通路内部

上部に階段が設けられている。

うみかぜ公園に移された大型兵舎

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