三崎砲台

<概要>三浦市南下浦町金田小字東野頓坊
・大正12年震災により損傷、大正13年改築、昭和18年除籍
・昭和11年、初めて八八式海岸射撃具が設置されたが、昭和13年の砲撤去に併せて撤去された。
・砲は昭和13年に関東軍に移送され満州の砲台に移す。
・七年式三十センチ長榴弾砲4門。

<構造・現状>
南を向いて半円の砲座が直線上に四門配置され、砲座間には高いコンクリート製横墻が築かれていた。横墻内には地下道が貫通し、 掩蔽壕が作られていた。両端には砲側観測所があった。主観測所は南西約800m離れた岩堂山頂に設けられたが、後に脇に八八式海岸射撃具用の地下観測所が造られた。 探照灯は雨ケ崎にあった。また、金田係船場から砲台までの軍道(金田軍道:延長約1,300m)工事は、工兵第一大隊が演習を兼ねて実施した。砲は海路で運搬されたが、揚陸は油壷湾から行われたため、金田軍道は使われてないと推測される。
最近まで、砲座や横墻が残っていた。少し古い地図には砲台跡として記載されていた位であるが、 現在は完全に破壊され畑になっている。僅かに砲台左翼にコンクリート製の砲台長位置らしき遺構が残る。
観測所は当初の観測所と八八式海岸射撃具が設置された半地下観測所の新旧2ヵ所が設けられた。 当初の観測所は、建設時期がほぼ同年の西浦砲台と同様、コンクリート製円形の観測室の後部に掩蔽部が接続する構造である。 掩蔽部には司令室や計算室であったと思われる3つの部屋が設けられ、その上部には砲台長位置の円形構造物が残っている。 この観測所から80m離れて八八式海岸射撃具の観測所も残る。方形地下構造であるが、 破壊され覆土は取払われ、分厚いコンクリートの壁が藪に覆われて残っているのみである。

昭和21年米軍撮影空中写真

入口の門柱が侘しく残る

唯一の遺構。左翼砲台長位置と推測。

通信室内部。奥壁に上部への伝声管の穴

旧観測所

実測による平面図、立面図。
観測室の背部に掩蔽部(付属室)が接続し、
付属室の上部は砲台長位置となる。
明治期の観測所と比して、観測室が測遠機室
と砲台長位置に分離している。また、付属室
も複数の機能の部屋が設けられている。

古写真(昭和20年代と推定)

観測所付属室

内部。入り口部分を見る

内部。観測室の測遠機台が見える

観測室(測遠機室)

砲台長位置。各部屋へ通じる孔がある。

砲台長位置へ上る階段

新観測所(八八式)

入口部分。迷彩模様が残る

ぶ厚いコンクリートで造られている

壁には防湿アスファルトが残る。

88式観測所付属の設備

観測所前面に造られた防御壁。

古写真(昭和20年代と推定)

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