走水小学校(横須賀市)
台座正面には「二宮尊徳先生幼時之像」と刻まれた銅板、裏面には「昭和十二年十月十五日建之 寄附者 横濱 細川平蔵」と銘板が取付けられいる。
当初は銅像であったが、昭和17年9月頃に供出され、その跡に県内では珍しい陶製の二宮像が設置された。
何故か大腿から下が台座に埋っている。右足の後ろに切株が添えられており、立ち上がって歩き出そうとするところのようである。この像も右足から踏
み出している。
戦前の学校には奉安殿とともに、当たり前のようにあった二宮金次郎像。金次郎は通称で、正しくは二宮尊徳といい、江戸時代後期に報徳思想を唱えた農政家である。しかし、昭和の軍国主義のなかで「至誠報徳」の教えが、皇民化教育のために利用され、修身の教科書で取り上げられ、薪を背負って歩きながら勉強している有名なスタイルの像が昭和に入って、特に昭和10年代に盛んに建立された。
しかし、大東亜戦争に入ってから金属供出によりほとんど全ての金次郎像が出征していき、其の跡に御影石製の石像やコンクリート、硬化石(人造石)製や陶製(備前焼)などの金次郎像が作られた。従って現存する金属製の像はほとんど残っていない。(今のところ藤沢市六会小のみ)。
戦後、軍国主義の象徴と考えられて撤去されていったが、神奈川県内では、平成22年の神奈川県土地家屋調査士会の調査によると147基も存在しているそうである。しかも、戦後に再建された像も多くあり、至誠報徳の教えが現在にも生きていることがわかる。
しかし、昨今現存する金次郎像を撤去する動きがあるようで、その理由が、「歩きながら本を読むことを助長するから危険」、「子供が働く姿は今にそぐわない」など、ちょっとびっくり。
狭い了見で、物事の本質を捉えることの出来ない、更に、歴史を知らない大人が増えてきている。まさに金次郎の精神を学んでいただきたいところである。
一方、今の大人は本ではなくスマホを見ながら歩いている「歩きスマホ」が当たりまえ。これこそ今二宮と呼ぶべきである。
なお、像については、これだけの数量があれば同タイプのものも複数存在する。
<所在>
・横須賀・三浦地区:横須賀市、鎌倉市、逗子市
・横浜地区:鶴見区、神奈川区、西区、中区、南区、保土ヶ谷区、金沢区、戸塚区、旭区、栄区、泉区
・湘南地区:藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、寒川町
・県央地区:綾瀬市、愛川町
・その他地区
逸見小学校(横須賀市)
現在の像は、学校関係者や地域の方々により平成19年に再再建された新しいものである。当初は銅像で、生誕150年を記念して計画され昭和11年10月25日に除幕された。しかし、その後の金属供出により撤去されたのだが、昭和17年7月7日に石像が卒業生の記念事業として再建された。この像は永く親しまれてきたが、脚の破損により撤去され、現在の石像となった。
現在の像は、新しいためか全体にすっきり整った姿である。右足を踏み出していること(左足が多い)、背中に背負った背負子に薪とともに斧が括り付けられていることが特徴的である。台座は御影石製、昔のままで、正面には「よい日本人になれ」と刻まれ、背面には建設の経緯が書かれた銅板が取付けられている。
撤去された石像は彩色されて校内に保管されている。非常にリアルである。また、由来は不明(どなたからか寄贈されたらしい)なのだが、もう一体小石像も残されている。
走水小学校(横須賀市)
台座正面には「二宮尊徳先生幼時之像」と刻まれた銅板、裏面には「昭和十二年十月十五日建之 寄附者 横濱 細川平蔵」と銘板が取付けられいる。
当初は銅像であったが、昭和17年9月頃に供出され、その跡に県内では珍しい陶製の二宮像が設置された。
何故か大腿から下が台座に埋っている。右足の後ろに切株が添えられており、立ち上がって歩き出そうとするところのようである。この像も右足から踏
み出している。
大楠小学校(横須賀市)
硬化石製で、かなり風雨に侵食され、丸みを帯びてきている。正統派の姿で、左足の後ろに切株がある。顔が柔和でかわいらしいのが特徴である。
像高約105p(内台石10p)、台座約120p。
台座正面には「至誠勤労分度推譲 伯爵 金子堅太郎書」と二宮尊徳の教えを顕わした言葉が書かれている。裏面にも小さな銘板が取付けられている。建立年月日と寄附者等の氏名が刻まれているものと推測される。建立年は昭和のみ判読できる。
豊島小学校(横須賀市)
人造石製で、膝から下が台座に埋もれている。像高約130pものかなり大きい像でびっくりする。台座正面に「報徳園」とのみ刻字があるが、由来等は不明である。きれいな状態であるが全体的に大様な感がある。
久里浜中学校(横須賀市)
像は人造石製で、像高約1m、台座140p、大楠小学校の像と良く似ている。
台座正面の銘板には「至誠」とある。台座の裏には「昭和十一年三月二十八日 横須賀若松町 寄贈者竹山繁次郎」とある。なお、久里浜中学校は戦後開校した学校で、元久里浜小学校の場所であるため、この像は久里浜小学校にあったものと推測される。
台座下の本来土中に埋められる基礎部分がすべて露出し、そのまま置かれている。
大津小学校(横須賀市)
二宮金次郎の銅像は、児童の廃物集めの勤労によって、昭和十一年二月十一日に建てられたが、金属回収によって供出された。戦後、台座の上には、児童の卒業記念製作で作られたロダンの「考える人」の像が設置され今日に至っている。
右写真はありし日の金次郎像。他の写真では基壇に銅板が取付けられているが、この写真では無い状態である。
正蓮寺(横須賀市)
正蓮寺本堂の階段脇に置かれている。
台座が無く、地面に直置きの高さ約83cm(像本体約78cm)の小ぶりな像である。像は花崗岩製の新しいもので、お地蔵様のような佇まいである。
参拝者のための崇拝対象のひとつとして安置されているものであろう。
沢山小学校(横須賀市)
昭和11年からはじめた一銭貯金によって、昭和16年3月28日二宮金次郎の銅像が造られた。
しかし、翌昭和17年、金属回収により撤去され、この経緯を記した石碑が建てられた。昭和18年には、町の篤志家石田登増氏から石造が寄贈された。
この石像と石碑は戦後しばらく残っていたようだが、現在は見当たらず、残念ながらどこかの時点で撤去されたものと思われる。
腰越小学校(鎌倉市)
昭和9年12月23日、皇太子殿下(平成天皇)の第二回誕生日を記念して建設された石像。除幕式も同日行われた。
像高約110pで、90pの台座に据え付けられている。
台座の正面には「至誠勤労 喜徳郎(花押)」と裏面には「昭和九年十二月二十三日建之」と刻まれている。
風雨によりかなり浸食されているが、全体的に大柄で大様な造作である。
この石像と台座は腰越小(昭和11年4月1日に腰越尋常高等小学校と改称)の前身である正修尋常高等小学校の時代に建立されたもので、児童の節約勤労で得たお金と職員等の拠出によって製作された。
揮毫は、大日本報徳社長、枢密院議長であった一木喜徳郎によるもので、像の周囲には石垣が築かれ小庭が設けられていたようで
満福寺(鎌倉市)
陶製の小像である。満福寺の境内にあり、飾りとして置かれているようである。
小坂小学校(鎌倉市)
碑文等一切無いため経歴は不明であるが、供出後に置き換えられた石造と推測される。像高約96cm、台座約98cm。
台座はコンクリートや自然石製が多いのだが、脆い凝灰岩製であるのが珍しい。
脇には健康の碑が建てられている。
健康の碑
碑高150cm、幅75cm、厚さ13cm
(刻字)
碑正面:
「健康 昭和四十二年度受賞記念
環境美化教育優良学校 学校給食優良文部大臣賞 神奈川県一健康優良学校
全日本特選健康優良学校 優良PTA文部大臣賞 交通指導優良PTA賞
学校教育研究所賞 第十一代校長 内田春雄書」
碑裏面:
「昭和四十三年三月十五日建之
建碑協力者
甘道三郎 梅沢一太 関根昇平 長島敏雄 今井隅蔵 小川章 服部勝 斉藤勲
根本芳久 鈴木正雄 角田浩司 今井忠行 田中安太郎 石工 小泉由蔵」
深沢小学校(鎌倉市)
像高約100pで、107pの台座に据え付けられている御影石の石像である。
台座の正面には「努力 □川名謹書」、裏面には「昭和三十八年十月二十日 鎌倉市立深沢小学校創立十周年に当りこれを建立す 寄贈者鎌倉市梶原八〇二 金子亀吉 藤澤大和石材刻」と由来が刻まれている。戦後の像のためか足が長くスマートな体形である。残念ながら鼻が欠けてしまっている。
当初は銅像で昭和11年2月2日に除幕式が行われ、昭和17年2月に供出されている。
横浜国大学附属鎌倉小学校(鎌倉市)
かっての神奈川師範学校付属小学校であり、創立60周年記念事業の一つとして銅像が建設された。
昭和9年7月23日、金次郎の誕生日にあわせて神式で除幕式が行われた。
一般的な読書ではなく、指差し前方を見ているという珍しいポーズである。
小坪小学校(逗子市)
最初から石像として造られたもので、削り口が鋭いきりりとした像である。上の台石の周囲に寄附者や建立年月日が刻まれていて、背面に「昭和七年九月建之 石像ト上臺石 寄附者 高橋春吉 高崎明」とあり、左右の面には「下臺石及柵寄附者」の氏名が地区別に刻まれている。正面には「Z]と「S」を組み合わせた逗子小の校章が刻まれている。逗子尋常小学校の分教場であったことからこのマークが刻まれているらしい。因みに「Z」は、東郷元帥が逗子に住まわれていたことから「Z旗」の意味もあるようだ。下台石正面には「勤儉 海軍中将 上泉徳彌書」と書かれた金属板が嵌めこまれている。
なお、小坪小にはもう一体金次郎像があるとのことなので、再度調べてみたい。
生麦小学校(横浜市鶴見区)
戦後すぐにに再建されたもの。全体的に柔らかい彫口である。高さ140pと比較的高い台座に、像高90pあるため見上げる感じになる。
台座の正面には、「二宮金次郎先生」、背面に「昭和二十三年十月 校長 出口大甚 寄贈者 小倉昇」とある。
宗興寺(横浜市神奈川区)
曹洞宗の寺院、宗興寺の境内、しかも某家の墓地にある金次郎像。
なぜここにあるのか、まったく不明である。
像高1m程度。全体的に雨風による浸食感はあるが、背負子や肩紐、脚絆、印籠など細かい表現がなされている。一方、切り株や、背負っている薪、着物などは大雑把。だが、不思議と調和は取れている。
蛇足ながら、このお寺、横濱港の開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士(ローマ字でも有名です)が施療所を開いたことでも知られる。
三ツ沢小学校(横浜市神奈川区)
像高約96pで、86pの台座に据え付けられている。
台座縁の正面には「皇太子殿下御生誕記念」と刻まれていることから昭和8〜9年の建立と思われる。正面には、「勤儉力行」と決まり文句が刻まれている。
残念ながら、かなり傷んでおり、背中の薪や書物を持つ左手は失われている。
戸部小学校(横浜市西区)
建設年等不明である。
像高93p、台座は45pとかなり低い。鉄筋コンクリート製と思われ、浸食により丸みを帯びてきている。他と比べ手にしている書物がかなり小さい。
平沼小学校(横浜市西区)
像高91pで、149p高のスッキリした台座に据え付けられている。
台座正面には「二宮尊徳先生幼時之像
喜徳書」と書かれた銅板が、裏面には、「昭和六年十月 平沼尋常等小學校創立廿五週年記念
昭和五年三月同六年三月卒業生一同 平沼小學校卒業生有志 建之」と建立情報が書かれた銅板が取り付けられている。
また、台座上部の背面には、「横浜市平沼小学校
創立100周年記念
平成18年10月27日」と書かれた石板も付けられている。
御顔や全体のつくりが仏像を思わせる像である。
宮谷小学校(横浜市西区)
昭和40年に再建された三代目像で、銅製である。最初の銅像は、昭和10年に建立され、昭和18年頃に供出されたという。像高約102p、170pの台座に据え付けられている。金属製のためかスッキリした造型である。衣装が脛を出したバージョンである。
台座正面「勤儉力行 文部大臣 松田源治書」
台座裏面「昭和拾年拾月二宮尊徳先生ノ八拾年忌ニ際シ學校兒童竝ニ在勤者協力シテ之ヲ建設ス」
台座右面「創建の銅像は第二次世界大戦に召され 石像は潰れ 三度目の銅像を宮谷小学校同窓会有志相図リこれを復元する
昭和四十年十二月 十代校長山本□□記」
台座裏面「根岸石店 横濱市神奈川區淺間町六八二 電話三二四七〇」
台石正面「良い子 一、丈夫なからだ 一、よく学ぶ 一、美しいこころ 一、よく働く」
本町小学校(横浜市中区)
像高83p、黄味がかった御影石製で、高さ115pの台座に据えられている。全体的に角の立ったシャープな彫口であり、顔つきや頭部の表現は異色である。
台石正面には、「至誠報徳」の金属板が嵌め込まれ、左面には、「神奈川縣尊徳會設立記念
寄贈 山口雄司殿
昭和十六年九月四日」と建立情報が刻まれている。
日枝小学校(横浜市南区)
昭和13年保護者からの寄贈により建立された。
高72p幅95p、奥行50pのシンプルな台石の上に据えられており、像高93pと小柄な石像である。
台石正面
「勤儉力行 勲八等井上□書」、裏面には、「寄贈 尊像一基 松宮瑞□□ 同□□ 同□□ 兒等母校ノ訓育ニ愛シテ其業ヲ修得ス□□謝ノ微衷ヲ表シ修身□テ之ヲ長久ニ記念セ□
皇紀二千五百九十八年 保護者 松宮義太郎」と刻されている。
左面(平成22年の移設の際の説明板)
「二宮尊徳像
昭和13年(1938年)在校生の保護者松宮義太郎氏より寄贈され校庭に面した校舎中に設置
昭和57年(1982年)校舎建替えにより中庭に移設
昭和22年(2010年)創立100周年の同窓会記念事業として正門脇に移設」
南吉田小学校(横浜市南区)
建設年等不明である。
像高約95p。高さ160pの大きな台座に据えられている。鉄筋コンクリート製であり、風雨によりかなり浸食されている。台座の正面に「勤勉努力」と書かれた木札が取り付けらている。
東小学校(横浜市南区)
像高122p、御影石製で、自然石2段積みの高さ71pの台石に据えられている。大柄で存在感のある像である。
昭和10年10月20日に建立。学校正面に住んでいた貴族院議員上郎氏が会長となって除幕式が行われた。建設当初から石造であり、台座とともに当時のものが残されている。
台石正面には、貴族院議員上郎助氏による「誠」の一文字が刻まれ、左面には、
「二宮尊徳先生八十週年記念
昭和十年十月二十日 東小學校職員兒童
小學校後援會」と建立情報が刻まれている。
くぬぎ台小学校(横浜市保土ヶ谷区)
昭和46年10月の開校であり、近隣の鶴ヶ峰小学校同様、戦後新たに設置された石造である。
平成13年10月、創立30周年を記念して寄贈された。
他の金次郎とは異なりかなりデフォルメされており、特に頭部は仏像のような造形である。
像高約130cm。
(刻字)
台座正面:「二宮金次郎像」
台座裏面:「寄贈 平成十三年十月吉日 旭区西川島町 小金井兵之輔」
川島小学校(横浜市保土ヶ谷区)
金属供出後に硬化石製像に置き換えられたものと推測される。台座は何の変哲もないただのモルタル塗りの箱型で、刻字など一切無いため経歴は不明である。
像は写実性が高いが浸食がかなり進んでおり、鉄筋が露出している。
像高約97cm、台座49cm。
六浦小学校(横浜市金沢区)
昭和9年に小泉信吉さんらによって建設されたもの。
像も台座も御影石製である。像高約108p、台座約105p。
台座の正面には
「二宮尊徳先生尊像」と刻まれ、台座右面には、
「昭和九年五月建設 小泉信吉 外教員□□□」と建立情報が刻されている。
なお、台座上部の正面にも刻字があるようだが判読不能である。
金沢小学校(横浜市金沢区)
建設年等不明である。
像高約85pと小ぶりであるが、高さ約172pと非常に高い台座に乗っている。
台座正面には、「報徳」とのみ刻まれている。
像については、他像と比して、頭の下げ具合が大きく、また背中に背負っている薪が太めである。
戸塚小学校(横浜市戸塚区)
昭和5年、教育勅語発布40周年を記念して建立された。像高約108pの御影石製で、像には不釣り合いな巨大な御影石の礎石上(高さ約73p)に据えられている。
礎石の左側面には由来が刻まれた銅製の銘板が付けられている。それによるともともとは銅像であり、現在の石像は、供出後に置き換えられた石像である。新聞報道では、台石は大震災で倒壊した忠魂碑のものを移したもので、その上に金次郎像を建設、7月23日に除幕式とある。
銘板
「教育勅語御下賜四十周年記念 昭和五年十月三十日
戸塚町在郷軍人分會 戸塚町青年團 辛酉會
教育勅語御下賜四十周年記念トシテ郷□ノ偉人二宮尊徳先生幼時ノ銅像建設ノ議アルヤ軍人會青年團先ズ此礎石ヲ運搬シ尋テ一般ヨリ建設費寄附ヲ募ラントス偶々辛酉會此擧ニ賛シ其創立十周年記念トシテ像身ヲ寄附セラレシニ依リ三團體共同シテ之ヲ建設シ永ク生徒ヲシテ先生ノ遺徳ヲ仰ガシメ教化ニ負セントスルモノナリ茲ニ其由来ヲ誌ス」
川上小学校(横浜市戸塚区)
昭和14年4月3日の建立であるというが、昭和15年3月27日付け新聞記事によると皇紀2600年を記念して二宮尊徳銅像を建立すべく申請したとある。これが正しいとすると建立は昭和15年4月以降ということになる。
いずれにしても、銅像は供出されているため、たぶん戦後作であろう。金次郎MAPには昭和47年8月8日に移設とある。
詳細は不明である。
東戸塚小学校(横浜市戸塚区)
同小学校は、昭和26年創立の戦後の小学校であるため、当然戦後の像である。
台座の銘板には、「昭和三十五年三月 二宮尊徳石像 贈 寺村清吾氏 台座 多田建設株式会社」とあり、昭和35年に寄贈を受けたものであることがわかる。
像は御影石製で像高約73p、台座は約97pである。他像と比し小柄で太目、ざっくりした造作である。
大運寺(横浜市戸塚区)
大運寺の境内に建立されている。台座には「二宮金次郎之像(ルビ付)」の銘板が取り付けられている。近寄れないため詳細は不明であるが、見るからに最近の製作である。
鶴ヶ峰小学校(横浜市旭区)
当小学校は、戦後の開校であるので、戦後に新たに設置された金次郎像の数少ない例である。平成20年4月創立50周年の記念として近隣の民家にあったものを寄贈された。
金属製であり、背負っている薪の束が枝先と根本で厚みが異なっていたり、書物に文字が書いてあったりと細かい表現がリアルな像であるが、台座もなく地べたに直接設置されているのが、少しかわいそうである。
像高約125cm。
豊田小学校(横浜市栄区)
建設年等不明である。
像高約110pと大柄である。他例のように台座に乗っておらず、高さがないため見下ろすことになってしまう。刻字も見当たらない。
従って、もと台座が存在したが、移転などの理由で撤去されたのではと推測する。
柏陽団地(横浜市栄区)
旧本郷小学校にあった像で、今は跡地である柏陽団地内に保存されている。脇には本郷小学校創立の地碑も建てられている。
像は高さ約97pで、台座は横浜市の宮谷小学校のような2段重ねの大きなもので、下部が埋もれており、160p以上の高さがあったと推測される。
像は人造石製で浸食が進んでおり、手にしている書物は内部の鉄筋が露出している状態である。
台座上部のへりには「二宮尊徳先生八十年祭記念」、正面には「勤儉力行」、裏面には「寄贈 昭和十一年二月二十一日 銅像 石井増平氏 臺座及基礎工事一式 小学校児童 青年学校生徒一同」
とあり、当初は銅像であったことがわかる。供出の後、現在の石像が据えられたものと推測される。
台座下段には、報徳訓が刻まれている。
「報徳訓 父母根元在天地令命 身體根元在父母生育 子孫相續在夫婦丹精 父母富貴在祖先勤功 吾身富貴在父母積善 子孫富貴在自己勤勞 身命長養在衣食住三 衣食住三在田畑山林 田畑山林在人民勤耕 今年衣食在昨年産業 来年衣食在今年艱難 年々歳々不可忘報徳 右二宮先生語」
中和田小学校(横浜市泉区)
昭和12年11月3日に設置されたもので、供出後に石像に置き換えられたものであろう。
台座には「勤儉力行」とある。
片瀬小学校(藤沢市)
像高約105pで、135pの台座に据え付けられているブロンズ像である。
台座の正面には「至誠勤労」、裏面には「昭和十年三月建之 三子卒業記念秋元大太郎」と刻まれている。
当初の銅像は、昭和10年1月23日に除幕式を実施したが、昭和18年5月頃に金属供出により撤去され、台座のみ残された。
昭和24年に、秋元大太郎氏、中村亀太郎氏の寄贈により御影石製の石像が設置された。
その後時期は不明だが、現在の像に変えられた。
頭部が大きく全体のバランスが悪い。背負っているのが細い木の枝であるのが珍しい。
なお、像の背部に「榮山」という銘が入っている。
(補足)昭和10年10月20日、江の島分教場にも二宮尊徳先生銅像が建立された。
江の島分教場にあった銅像
明治小学校(藤沢市)
像高約116pで、157pの台座に据え付けられている石像である。
沿革史には昭和8年創立30周年記念行事を行い二宮尊徳像を設立するとあり、柵石にも「昭和八年三月」と刻まれている。
台座の正面銘板には「二宮尊徳先生幼時之像 寿恵書」とある。
台座裏面刻字:
「夫レ至誠勤勞ハ天道之至極也推譲分度ハ人道之要諦也我等カ郷土ノ
偉人ニ二宮尊徳先生是ヲ立首シ是ヲ體現シ洽ク救世濟民ノ實ヲ挙ケ汎
ク社會國家ノ福祉ヲ増進シ以テ範ヲ百世ニ圭シ訓ヲ後世ニ貽セリ而
テ現代國民教學ノ理想ハ實ニ斯カ紹述攪充ニ在リトス本校夙ニ觀ル
所アリ常ニ先生ノ徳風ヲ景仰シ其ノ實行ヲ模範トシ黌ノ□機構ヲ提
ケ心ヲ傾ケ力ヲ掲シテ兒童ノ教化薫陶ニ懋(ツト)メ既ニ歳月ヲ重ス
當町ニ田中勇吉氏アリ志ヲ商ニ立テ家業ニ淬礦スルコト五拾餘年篤
ク報徳ノ教ヲ信シ修身齊家處世行事咸其オ規ニ□ヒ克ク效ヲ顕ス會
本校教育ノ實績ヲ識リ心ニ合フアルヲ懌ヒ之カ助成ヲ希ヒ尊徳先生
幼時之像ヲ建設寄附ス惟フニ此ノ徳業ヤ啻ニ學校ノ教育ト社會ノ善
導國家ノ興隆ニ鴻益スルノミナラス寔ニ報徳ノ眞義ニ適フモノト言
フヘシ茲ニ功成ルニ當リ聊事ノ次第ヲ誌ヲ以テ後ニ傳フ
昭和九年七月 明治尋常小學校長遠藤安太郎誌 福岡信書 高野宏刻」
藤沢小学校(藤沢市)
児童らの働きによる基金によって昭和12年10月に銅像が建立されたが、昭和18年に供出され、同年寺田三郎会長と報徳会から寄贈された石造である。
傍らには報徳碑が建立されている。
像高約111p、台座168p。
台座正面銘板:「至誠勤勞 喜徳郎書(花押)」
裏面:
「藤澤報徳社
寺田三郎兵衛 伊藤國造 三橋善吉 三橋善太郎 寺田満重 寺田満義 川上安次郎
寺田鐡之助 萩原輝 萩原敦子 寺田忠七 寺田良夫 川上久□ 守谷秀次郎 久保田榮三郎
沼上卯之助 沼上敏□ 峯尾三 峯尾利三 豊浦秀治 寺田忠義 田島儀平 石室近治
昭和十二年十月□日 片瀬秋□石材店刻」
村岡小学校(藤沢市)
約114pの台座上に像高約94pの像が約10pの厚さのコンクリートで接着されている。御影石製である。
台座の正面には「至誠報徳」と刻まれている。左側面には「昭和十三年五月六日建之」と建立年月日が刻まれている。
沿革によると昭和13年4月ニ宮尊徳銅像建設、同18年2月金属回収運動により撤去とある。
現在の像は、銅像供出後すぐに再建された石像である。
*右端写真は創建当初の銅像。
船玉神社(藤沢市)
船玉神社の境内の右手にある。由来は一切不明であるが、この近隣の小学校にあったものを移設したものと推測される。その際、台座ごとでは大きすぎるため、像のみ移設し写真のような台石に接着したものであろう。
六会小学校(藤沢市)
児童の毎月の一銭醵金と地域の協力で昭和11年5月5日に完成した。
他校と同様に昭和19年に国に献納されたが、奇跡的にそのまま戻されたという大変貴重な銅像。
創建時の銅像が残っているのは今のところ唯一である。像の背部には「日本地形社作」と刻印がある。
像は写実的であり今にも歩き出しそうである。台座は御影石の六角形で、刻字は見当たらない。当時は協賛協力者名が刻まれていたので、換えられていることが推測される。
像高約97cm、台座90cm
右端写真は創建当初の銅像。
御所見小学校(藤沢市)
昭和27年、御所見小学校の創立60周年を機会に、戦前戦後を通じて途絶えていた同窓会が再開し、記念事業の一つとして、卒業生の寄付を集め建立された銅像である。完成は昭和28年3月。像の背部部には「鉄栄作」の刻印がある。
像高約110cm(内身長約96cm)台座145cm。
(刻字)
台座正面:「勤勉努力 同窓会長桜井登喜書」
台座裏面:「創立60周年記念 御所見小学校同窓会 昭和二十八年三月」
辻堂駅前(藤沢市)
最近建てられた石造で、ユーコープ隣のオザワビル前の歩道上にある。
現代にも報徳思想が受け継がれていることがわかる。
(刻字)
台座正面:「二宮金次郎像」
台座裏面:「〜
・「積善」=良い行いを積み重ねること。
・「勤労」=心身を労して仕事に励むこと。
・「報徳」=受けた教えに感謝し、その恩義にむいること。
・「真心」=偽りない誠意と心で尽くすこと。
二宮金次郎さんが残した言葉に、私の顔は、人々の心の中にある荒れた心を清らかにし、天から授かった善の種を心の中に育てて、また、まきひろめることにある。荒れた心を、一人ひとりが清らかに育てていけば、荒れ果てた土地が想像を超えた広い範囲であろうとも恐れず復興への道を歩んでゆける。
2012年3月吉日 建立者 かどくらグループ7「いつもありがとう」100周年記念 小澤直幸」
茅ヶ崎小学校(茅ヶ崎市)
児童の節約、勤労によって得た資金で昭和8年3月3日に銅像が建立された。揮毫は、当時の総理大臣斉藤實。周辺の小学校と同様昭和18年頃供出され、その後現在の石像に置き換えられたもの。
像高約123p、台座155p。
(刻字)
台座正面:「勤労 齋藤實 書」
台座右面:「二宮尊徳先生建設趣旨
夫レ勤勞ハ天地ノ公道ニシテ人倫ノ常經タリ人能ク勤労爲樂
ノ境地ニ格リ天分ニ順ヒ才能ニ應シ職ニ就キ業ニ勵マンカ人
生ノ至幸之ニ過キサルノミナラス延イテハ國本ヲ無彊ニ培フ
事ヲ得ヘシ由来本校ハ勞作主義ヲ以テ教育ノ根本原理ナリト
信シ只管児童ノ作為体験ニ訴ヘ勤勞ヲ尚ヒ協同ヲ重ンシ以テ
善良ナル公民健全ナル國民タルノ資質ヲ涵養セントセリ慈ニ
現高等科第二學年児童ハ偕ニ相畫ル所アリ本校教育ノ象徴タ
リ而シテ又我等ノ亀鑑タルヘキ二宮尊徳先生ノ銅像ヲ建設シ
以テ日夕之ニ親灸セント固く相契リ相誡メテ互ニ冗費ヲ節シ
或ハ花卉ヲ栽培シテ市場ニ出シ時ニハ海濱ニ防風ヲ採リテ之
ヲ鬻ク等協力協心之カ資金醵出ニカム事ヲ企テテヨリ一年有
半其ノ真摯熱誠ナル態度ハ自ラ全校児童ヲ動カシ之ニ参画セ
シメテ遂ニ其ノ素志ヲ達シ茲ニ永遠ニ記念スヘキ銅像ノ建設
ヲ見ルニ至リ本校沿革史上特筆スヘキ業績ヲ留ム爾今教ヲ本
校ニ受クル者克ク尊徳先生ノ訓ニ遵ヒ銅像建設ノ由来ニ顧ミ
切磋琢磨怠ルナカラン事ヲ茲ニ其ノ趣旨ヲ録シテ不朽ニ傳フ
昭和八年三月三日 尋常高等小學校長清水徳造識」
台座裏面:判読困難
鶴嶺小学校(茅ヶ崎市)
昭和12年3月3日に建立されたセメント像であり、現在まで残されてきたが、腐食が激しいため、100周年記念事業の一つとして平成20年に修復された。
像高約108p、台座165p。
(刻字)
台座正面銘板:「至誠報徳」
台座左面:「昭和十二年三月三日建設 鶴嶺小學校職員兒童」
台座正面下部:「報徳訓
父母根元在天地令命
身體根元在父母生育
子孫相續在夫婦丹精
父母富貴在祖先勤功
吾身富貴在父母積善
子孫富貴在自己勤勞
身命長養在衣食住三
衣食住三在田畑山林
田畑山林在人民勤耕
今年衣食在昨年産業
来年衣食在今年艱難
年々歳々不可忘報徳
右二宮先生語」
宝生寺(茅ヶ崎市)
お寺の境内に奉納された現代の金次郎像で、学校教育には無関係である。
像、台座ともに御影石製である。
像高86p、台座110p。
(刻字)
台座右面銘板:「奉納 平成十年九月吉日 (有)平子寅石材店」
輪光寺(茅ヶ崎市)
お寺の境内に奉納された現代の金次郎像で、学校教育には無関係である。
像、台座ともに御影石製である。
像高80p、台座90p。
(刻字)
台座右面銘板:「奉納 平成十一年一月吉日 (有)平子寅石材店」
松林小学校(茅ヶ崎市)
昭和12年5月5日に銅像が建立されたが、太平洋戦争中に金属供出され、その後昭和30年3月3日に、開校60周年記念事業として御影石の石像が再建された。
銅像の建設費は銅像製作に180円、基礎工事と台座が160円、その他除幕式費用等で総額563円14銭であり、その大部分は、地元部落の寄附である。
像高約95p、台座165p。
(刻字)
台座正面銘板:「至誠勤勞 寿徳郎書」
台座右面:「開校六十周年を記念し之を再建す
昭和三十年三月三日 松林小学校PTA」
裏面:「
二宮金次郎先生ハ孝行ノ權化トシテ經濟ノ達
識トシテ将又至誠勤勞分度推譲ノ實行家トシ
テ世人ノ崇敬措ク能ハサル聖人ニシテ而カモ
郷土ノ偉人タリ依ツテ茲ニ吾等校下ノ同窓會
並ニ青年團役員一同ハ学務委員並ニ區長ト相
計リ相盡シテ母校ノ庭ニ尊像ヲ建設シテ朝夕
兒童ニ拜セシメ至誠勤勞ノ美風ノ養成ト相俟
ツテ徳化ノ資料タラシメタク廣ク校下有志ノ
賛同後援ヲ得テ今日尊像ノ落成ヲ見ルニ至リ
シナリ 昭和十二年五月五日」
小出小学校(茅ヶ崎市)
宝泉寺の住職であった小泉龍紋氏の寄贈による石造二宮像で、コンクリート礎石から成る。昭和10年3月15日除幕式が挙行された。像高65pと非常に小柄な像である。戦後であろうが、両足が破損したため、コンクリートで補修されてはいるが、素人のぞんざいな手当で、痛々しい姿である。
像高約65p、台座高約120p。
(刻字)
台座正面銘板:「勤労 龍紋敬書」
台座裏面:「寄贈 小泉龍紋氏 昭和十年八月」
大野小学校(平塚市)
自然石の台石に建てられている御影石製石像で、銅像からの再建なのかは不明であるが、膝下から埋められている状態である。
郷土史によると、当初は、職員室際に建てられていたそうであるが、現在は正門脇の奉安殿の跡地に移設されている。
終戦直後に隠すために足首の所で切られたそうである。
刻字は一切ない。
像高約96p、台座68p。
神田小学校(平塚市)
こちらも設置年月日、銅像からの再建なのかは不明である。御影石製の石像であるが、造作があまり精緻ではないため、置き換えと推測される。台座には「至誠報徳」とあり、報徳訓用に別に石碑が作られているのが珍しい。
像高約80p、台座85p。
神田小学校(報徳訓の碑)
碑高49p、幅109p、厚さ40p
痛みが激しく、表面の文字は判読困難であり、内部の鉄筋も露出している。
(刻字)
碑正面:
「報徳訓
父母根元在天地令命
身體根元在父母生育
子孫相續在夫婦丹精
父母富貴在祖先勤功
吾身富貴在父母積善
子孫富貴在自己勤勞
身命長養在衣食住三
衣食住三在田畑山林
田畑山林在人民勤耕
今年衣食在昨年産業
来年衣食在今年艱難
年々歳々不可忘報徳
右二宮先生語」
寒川小学校(寒川町)
当初の二宮像は、大正の初めころに一之宮の入沢銀次郎氏が寄贈したものである。関東大震災で損傷し、再建されたが、昭和28年に、老朽化により再度再建されたのが今の銅像である。
像の腰部には「鉄栄」の署名がある。
像高127p(台含む)、台座145p。
台座正面銘板:「報徳」
台座裏面:「開校八十周年記念 昭和二十八年再建」
興全寺(寒川町)
戦後の昭和56年7月、お寺の境内に寄進された金次郎石像である。しかし、像自体は戦後のもとは思われない造形であり、もしかするとどこかの学校のものを移設したのかもしれない。台座に寄進者などの情報が刻されている。
像高130p、台石23p、台座110p
台座正面:「報徳」
台座背面:「功徳主 彫像寄進 金子紀昭(横浜) 元当山責任総代 北村政之助 元寒川町教育委員長 井出兼次
昭和五十六年七月 当山廿五世英昭代」
綾瀬小学校(綾瀬市)
最近まで昭和16年建立の石造の金次郎があったが(巨大な台座には「至誠報徳」と刻まれていていた)、2011年に校舎が建て替えられた際に、残念ながら撤去された模様。別に校舎内には金次郎の小木造が残されているが、由来は不明である。
像高60p、台座10p。
半原小学校(愛川町)
同校は旧半原村の小学校として明治6年11月開校。金次郎像は昭和12年4月に佐藤何某氏より銅像が寄贈されたが、大戦中に金属供出に出され、戦後の昭和30年3月、開校80周年記念事業で再建された。これが現在の像である。作者は寒川小学校のものと同じ「鉄栄」作。
御影石の台座は当時のものであるが、勤勉努力の揮毫者の名前が消されている。田代小学校の金次郎像台座も同じように消されているが、よく見ると「海軍大将有馬良橘書」と読める。たぶんこちらも「海軍大将有馬良橘書」であろうと考えている。
像高110
p、台座150p。
(刻字)
台座正面銘板:「勤勉努力 (揮毫者名は消されている)」
田代小学校(愛川町)
同校は旧田代村の小学校として明治6年7月10日開校。金次郎像の建立年については不明(金次郎マップでは昭和15年)であるが、周辺の状況から推測して昭和10年代前半で銅像であったであろう。これが金属供出で失われ、昭和31年1月に再建された。作者は地元の彫刻家中村博直氏である。
御影石の台座は当時のものであるが、揮毫者の名前が消されている。よく見ると「海軍大将有馬良橘書」と読める。なお、この像は珍しい座っている金次郎である。再建当時、当地域は自動車保有率が高かったため、児童が歩きながら本を読むことを真似したら危険であるという理由で座像になったとのこと。
像高110
p、台座170p。
(刻字)
台座正面銘板:「勤勉努力 (揮毫者名は消されている)」
中津小学校(愛川町)
同校は旧中津村の小学校として明治6年6月21日創立。金次郎像の建立年については不明であるが、揮毫の石田馨が神奈川県知事であった昭和10年1月から昭和11年3月の間だと考えている。像はコンクリート造であるが、当時のものか再建なのか不明。台座は当時のもののようであるが、背面の碑板が剥ぎとられている。
なお、一般的な薪を背負い本を読む像ではなく、草鞋を差し出す姿である。これは金次郎がまだ子供で働けないため、働く大人たちのために草鞋を作って配ったという逸話を表現しているらしい。
像高140p、台座150p。
(刻字)
台座正面銘板:「至誠報徳 石田馨書」
高峰小学校(愛川町)
同校は旧高峰村の小学校として明治27年9月18日開校。金次郎像の建立年については不明であるが、昭和3年の写真に写りこんでいることから少なくともそれ以前の建立と考えられる。しかし、揮毫の石田馨と整合が取れない。像もコンクリート造であり、先の写真のものと異なるので再建と考えられるが、その時期は不明である。台座は当時のもののようであるが、背面に刻字があり、判読困難であるが、昭和26年4月30日の記載があるので、これも整合が取れない。それにしても、恰幅の良い金次郎であり、戦前のものとは考え難い。
像高125p、台座170p。
(刻字)
台座正面銘板:「勤險力行 石田馨書」
谷塚小学校(草加市)
銀色のペンキが塗られているがセメント製のように見える。昭和13年6月の建立であるが、当初からセメント像なのか、銅像からの再建なのかは不明である。
(刻字)
台座正面銘板:「至誠報徳」
台座左面:「昭和十三年六月建立」
台座正面下部:「報徳訓
父母根元在天地令命
身體根元在父母生育
子孫相續在夫婦丹精
父母富貴在祖先勤功
吾身富貴在父母積善
子孫富貴在自己勤勞
身命長養在衣食住三
衣食住三在田畑山林
田畑山林在人民勤耕
今年衣食在昨年産業
来年衣食在今年艱難
年々歳々不可忘報徳
右二宮先生語」
東郷小学校(茂原市)
昭和14年の建立であるが当初から石造であるかは不明である。東郷小学校は昭和19年に現在地へ移転しているので、その際に一緒に移設したものであろう。揮毫者の一木喜徳郎は、静岡県出身で大日本報徳社社長を務めた方。内務官僚や貴族院議員も歴任している。
像高約98p、台座160p。
(刻字)
台座正面銘板:「以徳報徳 一木喜徳郎書」
台座裏面:「寄贈 昭和十四年八月廿二日 藤乗義治郎」