戦時代用品

社 会

太平洋戦争は消耗戦に陥ったため、資源小国である我が国は、兵器や食料はもとより、あらゆるものが不足する状況となり、市民生活にも大きな影響を与えた。特に金属や食料は深刻で、金属製品は陶製や木製に置き換わり、米や野菜は、小麦や芋、野草にとって変った。また、石油は木炭に変わり、木炭バスが当たり前になった。生活の知恵に驚かされるものもあれば、逆に現在のエコに通じる部分もあるかもしれない。

陶製分銅

竿秤(さおばかり)で重さを計る時に使われる分銅。元は金属製だが、鉄不足のため陶器で代用したもの。 「定錘 秤量七瓩」は、7kgの重りという意味。陶製分銅は調べた限りこのタイプしかなく、社号が「曲尺に中」か「K」の二種類があった。
製造の詳細は、「計量史研究. 29(2)『岐阜県の「ます」及び陶磁器製定量錘の製造に関して」 著者長岡,昭雄 2007年8月10日(日本計量史学会出版)」に掲載されている。 概要は次の通り。
製造は、岐阜県の金中製陶所(岐阜県瑞浪市陶町)である。
同社は昭和16年に開発に着手、昭和17年末頃に完成したが、その時は製造免許がなく他メーカーの名前で製造していたことで「K」を付けた。昭和 19年に製造免許を受けたことで、自社の社号を入れるようになった。 つまり。社号で製造年が判別できるということ。写真の「曲尺に中」は昭和19年以降の製造である。

陶製手榴弾

「四式陶製手榴弾」と呼ばれ、昭和19〜20年に、日本海軍が、陶磁器生産地に作らせたもの。陸軍も本土決戦用に造らせている。大きさは10p程の小さいものである。 口にはマッチと同じような摩擦式発火装置があり、信管部には防水のためにゴムキャップが付けられていた。本体も保護のために薄いゴム膜に覆われていた。
川越市の川越東高の裏の河原(びん沼川)には、当時、浅野カーリット埼玉工場(陸軍造兵廠川越製造所の下請け工場)で製造されていた手榴弾の破片が大量に残されている。戦争直後に廃棄されたもの。因みにカーリットは、手榴弾に充填する爆薬であった。

陶製地雷

三式地雷。直径約27p。素焼きの土器にベークライトの信管を用いたことで、地雷探知機には見つからなかった。 戦後は、湯たんぽの代用品として売れたらしい。

防衛食

缶詰の代用品として造られたもので、正確には防衛食の容器である。
防衛食とは、空襲下などの非常時に、無火無煙で食べられることを前提に、加工済みであること、長期保存できること、社会活動を維持できるカロリー及び栄養素を吸収できることなどを満足させるものである。
この容器は保存のために、ゴムパッキンを挟んで密閉、真空にしたもので、開けるときには蓋の穴からゴムパッキンに穴をあけて開封した。 しかし、食糧難のために実際問題、中に入れる食糧がなく、ほとんどが空容器であったと言われる。また実際、出回ったったのはごく僅かであり、戦後大量の空容器は破棄されたという。 一般的には馴染みのない製品である。

陶製アイロン

一般には、内部にお湯や炭火を入れて使用したが、写真の物のように電気コードは切り取られているが、陶製の電気アイロンもあった。内部にはニクロム熱線が入っていて、金属アイロンと同じようにアイロン面を熱して使ったのである。

鮭皮製子供靴

牛革の代わりに鮭の皮で作った子供靴。3歳の七五三で履いたとのこと。(世田谷平和資料館蔵)

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