軍事上の理由で移転を余儀なくされた寺社

社会

三浦半島は、特に近代においては、首都の喉元という立地から軍事上の要衝として、陸軍は観音崎を皮切りに各所に砲台を築き、海軍は軍港横須賀を中心に海軍施設の拡充を続けました。そのため、三浦半島の各地で軍用地とするための土地の買収が行われ、そこに住んでいた人々は立ち退きを余儀なくされました。特に太平洋戦争期には、突然の命令によって有無を言わさず、二束三文で先祖代々の土地を買い上げられ、移転させられたという証言が多く残されています。こうした土地の接収は寺社に対しても例外ではなく、多くの寺社が移転を余儀なくされたのです。

観音寺(陸軍用地)

起源は行基が刻んだ観音菩薩像をお祀りしていたお堂が前身。観音崎の先端にあって江戸時代に観音寺として開山された。曹洞宗で逗子海宝院の末寺。
明治13年に陸軍が初めての砲台を観音崎に建設するために周辺の土地を買収したため、観音崎の南に位置する鴨居の亀が崎に移転した。しかし、昭和11年に失火により観音像を含め焼失。現在跡地には、寺標と何やら仏像の納められた小祠がひっそりと残る。

春日神社(陸軍用地)

所在地である旧公郷は平安時代に藤原氏の荘園であったため、奈良の春日大社から分霊勧請したと伝えられている。猿島に鎮座し全島を神域とした神社で、公郷地区の総鎮守であり、三春町の現在地にあった拝殿から遥拝していた。
しかし、陸軍の猿島砲台建設のために猿島が買収され、立入が禁止されたため、明治17年4月山崎の地に遷座したが、明治41年に遥拝所であった現在地に再度遷座された。

橘神社(陸軍用地)

日本武尊の后であった弟橘媛命は、東征する夫日本武尊が走水から安房に向かって海を渡る際に、海神の怒りを鎮めるためにその身を捧げた。そのため、日本武尊一行は無事に渡ることができた。
その後、走水に弟橘媛命の櫛が流れ着いたので、村人たちは御所のあった御所ガ崎に社を建て櫛を納め橘神社とした。
時代は下り、明治18年御所ガ崎に走水低砲台が築かれることになり、橘神社は日本武尊が祀られている走水神社に移され、さらに、明治42年に走水神社に合祀された。

御嶽神社(陸軍用地)

元禄2年に奈良吉野の蔵王権現を勧請したと伝わる。もとは現在地の東方の山上にあり蔵王権現社と称されていたが、明治31年、陸軍重砲兵連隊の練兵場、射的場が造られることになり、現在地に遷座した。
なお、明治初頭の神仏分離政策により蔵王権現を祀る神社は、仏教色をなくすため御嶽神社や金峰神社などと改称されたので、この蔵王権現も明治20年に御嶽神社に改称された。

爪彫地蔵尊(陸軍用地)

陸軍重砲兵連隊の練兵場用地となったため、移転させられた地蔵。現在地は西来寺向かいの駐車場である。その由来を説明板から転載する。
「弘法大師爪彫り地蔵尊由来 伝えによればこの地蔵尊は現在の不入斗中学、旧陸軍重砲連隊の中程、大木桜の根元にあった。古来より霊地顕著にして、その姿からか、子育て地蔵尊として篤く信仰され、香華のたえることがなかったという。
明治23年陸軍の重砲連隊が出来るについて、桜の木と共に西来寺境内に移された。しかるところ昭和18年阿弥陀一仏を信仰する浄土真宗にとって他の仏、菩薩を置くことは不可なりという本山の指導の下、現地点に安置することとなった。」なお、地蔵の台石にも移転の経緯が刻まれている。

深田神明社(陸軍用地)

旧深田村の鎮守。創建年代は不明だが、棟札から元禄年間にはすでに存在していたことがわかっている。この神社は、軍用地として買収されたためではなく、近くに砲台が建設されたことから、自ら移転したという説があるが、はっきりしていない。
もともとは砲台が築かれた山の中腹に鎮座していたが、山上に米ヶ浜砲台が建設されることとなり、現在地の深田台へ移転した。移転年代は明確ではないが、由来説明板によると明治16年に移設とある。蛇足だが、この神社には何故か鳥居がない。
戦後の昭和54年、旧深田町から米ヶ浜通が分離したことを受け、米ヶ浜にも神社をという住民の熱意から、旧鎮座地に新たに米ヶ浜神明社が創建された。

子の神社(海軍用地)

汐入の鎮守。もとは現在米海軍横須賀基地になっている楠ヶ浦に長源寺と共にあったが、明治17年海軍用地となったことで、現在の開閉所の下に移転した。そのためこの山を今も子の神山と呼ぶ。さらに明治30年3月、この場所が海軍用地となっため。明治31年4月26日現在地に遷座した。
境内入口に石段脇には、明治32年に建立された、この経緯を刻んだ遷宮記念碑が残されている。

長浦神明社(海軍用地)

もと箱崎半島の先端にあり「箱崎明神」と呼ばれた長浦村の鎮守で、祭神は天照大神を祀る。
明治13年9月箱崎の地が海軍用地となったため、長浦町西の浦浜に移転したが、ここも横須賀線によって参道を分断され危険であることから、昭和25年2月現在地に移転。

吾妻神社(海軍用地)

箱崎半島の中央部の吾妻山の中腹に鎮座し、 日本武尊、弟橘媛命を祀る神社であった。創建は弟橘媛命の櫛が流れ着いたので、村人がそれを納めて祀ったという橘神社と同様の話が伝えられている。
明治32年吾妻山一帯が海軍用地として買収されたため、明治33年、現在地に遷座した。簡易な覆殿の内部にある本殿は移転時のままの古いもので、江戸期の建造である。

長浦神社(海軍用地)

長浦神社は、元は田之浦神明社と呼ばれ、文禄年間に田之浦浜に造営されたもので、長く地域の信仰をあつめてきたが、大正15年に周辺の土地が海軍軍需部用地として買い上げられたため、現在地に遷宮した。跡地には軍需部神社が造営されたが、戦後破却された。
境内には、遷宮を記念して大正15年10月に建立された遷宮記念碑及び田之浦青年団奉納の30cm砲弾が残されている。

光心寺(海軍用地)

山号は楠箇山、浄土宗の寺院で、元は現在米海軍横須賀基地となっている楠ヶ浦にあった。
関東大震災後の海軍施設の移転集約を目的とした「稲楠土地交換事業」によって、昭和2年に衣笠の現在地に移転した。旧地は軍法会議となった。因みに、小屋の台にあった日清戦争の戦没者を祀る忠魂祠堂が震災で倒壊したため、昭和12年2月光心寺の境内に再建された。

披露山神社(海軍用地)

境内の説明板を転載する。
「披露山神社略記  当社はもと名主高橋家宅に祭祀されしを安政五年伏見稲荷大社より分霊を受け二神が合祀された。 明治二十三年現在地南方上部斜面に遷され、昭和十八年第二次世界大戦の折国防上の理由に依り再度遷座されるに至った。 祭神は倶に人々の生活に深く関り安寧と繁栄を司る守護神である。」とある。昭和18年の国防上の理由とは海軍による小坪高角砲台工事のためと推測される。

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