神雷戦士之碑(建長寺)

軍事遺物
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特攻兵器「桜花」部隊であった第721航空隊、第722航空隊(別称神雷部隊)の英霊をまつる鎮魂碑。
建長寺正統院の墓地岩崖の洞窟内に、昭和40年3月21日に建立されたもので、洞窟奥に海軍神雷部隊戦没者芳名の碑板が設置されている。
手前には碑の説明板があり、記載内容は次の通り。

「神雷戦士之碑
昭和16年12月8日、わが国は米国及ぶ英国に対し戦を宣し太平洋戦争に突入した。
緒戦においては、中部太平洋から印度洋に至る広大な地域で嚇々たる戦果を挙げたが、昭和18年に入るや連合軍の反抗態勢は次第にわが国の防衛線を圧迫し、遂に昭和19年には内太平洋の要衝を占領され、遠からず日本本土での決戦が予想される深刻な事態となった。
当時、わが国は戦争遂行に必要な資源も漸く枯渇してきたばかりでなく、人材の喪失によって部隊の練度も逐次低下をきたしていたのに反し、米軍は航空母艦を基幹とする大機動部隊を擁し、上陸作戦用艦艇を益々増強されつつあった。
わが海軍は、このような劣勢を挽回するため通常兵器の増強を図る一方、苦悩の末、一人克く一艦、一船を屠るため、必死の水中、水上、航空各種特攻へ行きを採用し、夫々部隊を編成した。
航空にあっては、桜花一一型を採用し、19年8月全海軍航空隊から、その操縦士を極秘裡に募集、同年10月、作戦部隊として第721海軍航空隊を新編した。本航空隊は、神雷部隊の別称を持ち、桜花隊とその懸吊母機一式陸上攻撃機、これを援護する零式艦上戦斗機の各飛行隊の他これと連帯して作戦する彗星艦上爆撃機隊、及び地上部隊によって構成され、その作戦の成否は、祖国の命運を左右するものとして期待された。
神雷部隊は、連合艦隊直率のもと、当初比島方面作戦に使用される予定であったが、その機会を失し、後に西日本防衛のため編成された第5航空艦隊の麾下として、20年3月、九州方面に来襲した敵機動部隊に対し第1回神雷桜花攻撃を敢行した。爾後沖縄攻防戦から終戦に至るまで、爆装零戦特攻機と共に、神雷桜花攻撃を反復実施し、その壮絶な戦法は、米国将兵を戦慄させた。
この神雷戦士の碑は、祖国の為、又同胞の為、一身の犠牲を顧みず、敢然として死地に赴いた至純、至高の若者達への鎮魂の碑である。
昭和40年3月21日 建立
第一次桜花攻撃20周年記念
平成5年10月1日 改修
神雷部隊結成49周年記念
海軍神雷部隊戦友会」