陸軍歩兵一等卒秋山浦吉君之碑(阿弥陀寺) |
軍事遺物 |
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日清戦争、そして乙未戦争に従軍し、凱旋の途上、明治28年7月26日汽車の事故にて戦死された秋山浦吉君さんの慰霊碑。報国会によって建立されたが、建立年は刻されていない。碑誌は、昭和48年11月建立であるが、本碑は報國会によるものであり、おそらく戦前の建立であろう。 脇に長男元吉氏による碑誌があり、生涯が記されているが、戦死日が本日と一日ずれている。 碑高180p、幅75p、厚さ22p、台石30p。 所在:横浜市磯子区 (刻字) 碑正面: 「陸軍歩兵一等卒秋山浦吉君之碑 報國會建之」 碑裏面: 「明治廿七八年日清戦役ノ際 仝廿八年七月廿六日戦死」 (碑誌) 「故父秋山浦吉は万延元年 旧久良岐郡峯村野村四郎ヱ門の五男として生れ 秋山家再興 初代次兄傳左ヱ門の養子となり 苅部久兵衛養女ダイと結婚し 何人かの子女をもうけしが皆死亡し其後妻ダイ難産の爲め死去し 明治貮拾貮年鎌倉郡村岡村岡村彌勒 寺山下太兵衛長女つねと再婚し貮拾参年長男の私を生む間もなく傳左ヱ門は悪疫に罹り此の世を去り父が二代目を継ぐ 明治貮拾五年長女けいを 明治貮拾七年貮女きよをもうけり 明治貮拾七年七月日清戰役が勃発し母と私等三子を残し 後備兵役として召集され八月一日第一師團歩兵第三聯隊に入隊し 北白川宮能久親王殿下の統率混成旅團 比志島少将の混成枝隊に編せられ 一兵卒として南洋萬里澎湖島より臺灣基隆に轉戦し 瘴煙癘雨を冐して燠熱の地に驅馳し 臺灣諸島の戡定成り我軍の大勝利のもとに戰火治まり 翌明治二十八年七月二十五日凱旋東上の途次 汽車適々大風雨に遇ひて備後の國尾道近傍に轉覆し 御調郡吉和村にて戰没す 維時紀元二千五百五十五乙未七月二十五日 而して嚴格なる母の後見のもとに五才にして秋山家を嗣ぎ その指導訓育の下に血の滲むような苦難を踏み越え興隆に鋭意努め本日に至る 昭和四十八年十一月吉日 遺子 秋山元吉 謹識 當年 八十三歳」 |