庚寅遭難之碑(聖徳寺) |
軍事遺物 |
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庚寅の歳(明治23年)に遭難した「干珠」の乗組員を慰霊する碑で、聖徳寺の境内に明治24年5月に建立された。碑は高さ4.5mのオベリスクのような珍しい形状である。 「干珠」は、明治20年小野浜造船所で進水した風帆練習艦である。明治23年10月18日、干珠は千葉沖に投錨し練習していたが、二等兵曹金元宗吉ほか11名の乗組員が艦長の命により短艇で千葉市街へ向かったが、艦への帰途暴風雨に遭い、12人中10人が遭難した。鎮守府により捜索され、遺体は千葉県姉崎の妙経寺へ葬られた。同寺には墓碑が建てられている。 碑前面には、上部に「庚寅遭難之碑」の篆額及び碑文が細長い碑面全面に刻まれている。 台石には、建碑関係者である当時の軍艦と組織名称が刻まれている。 碑高約380p、幅47p、台石95p。 所在:聖徳寺(横須賀市) (刻字) 碑正面: 「庚寅遭難之碑(篆額) 干珠艦兵曹金元宗吉等十人千葉海遭難之碑銘并序 明治二十四年五月 勵齋相良ョ善撰并書 明治二十三年十月十八日横須賀鎮守府干珠艦練習至千葉海投錨ニ等兵曹金元宗吉ニ等主帳竹口幸三郎一等水兵窪田源五右衛門一等水兵 佐藤松蔵一等水兵山内政助ニ等水兵森房吉ニ等水兵本山荘八郎ニ等水兵渡邉宇七郎四等水兵阿部辰五郎四等水兵木頭辰之助四等水兵岡 本捨郎四等水兵牧野辰之助以艦長命下端艇使千葉市街比還午後四時矣艇離岸二里許風雨暴起西北日亦瞑風猛雨獰咫尺漆黒蕩艇向岸金元 氏等百方盡力必期復命艇遂覆露背數寸皆拠之屡為怒涛所排撃而没活者僅木頭牧野二氏耳鎮守府索屍七日皆得之葬於上総國市原郡鶴牧村 妙経寺夫人之奉國家也或死乎戰或死乎變死則一也然戰也之以成名爲其遭變也徃徃泯滅而名不傳命數之極霄壌異位是忠臣烈士之所痛恨哀 悼而不惜也余聞金元氏等十人皆名節之士安知他日無立身策勳之秋乎而忽焉離此大故豈非命哉同僚山上幹造等泣謂余曰千葉海之事不忍復 言也請為記之将不朽之於石余為惻然銘曰 同志協力 奉公不惰 嗚呼天哉 善人離禍 立石勒名 泣涕如瀉 石工下田喜成刻字」 碑裏面: 「建設委員 上等兵曹山上幹造 一等兵曹野山平三 一等兵曹山本新太郎 一等兵曹川口嘉吉 一等兵曹橋耶吉 一等船匠手佐佐木豊吉 ニ等兵曹登平次郎 ニ等兵曹赤沼定一 ニ等兵曹夏目金三郎 ニ等看護手松村圓治 石工 佐野次郎」 台石正面: 「軍□□ 扶桑 天龍 千穂 鳳翔 浪速 雄 満珠 春日 龍驤 海門 八重山 舊肇敏 淺間 筑紫 武蔵 鳥海 迅鯨 愛宕 大和 磐城 葛城 筑波 天城 摩耶 赤城 比叡 金剛 石川」 台石左面: 「横須賀鎮守府 同海兵團 同衛兵扣所 同監獄署 同機關學校 同知港事廰 同衣糧科 同兵器部 同病院 同長浦水雷隊」 台石右面: 「海軍大學校 同主計學校 江田島兵學校 呉海兵團 佐世保鎮守府 同鎮守府 同海兵團 同衛兵所 同病院」 |
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「庚寅遭難之碑」の篆額 |
「干珠」明治21年6月13日竣工の航海練習艦(帆装)三檣バーク |