石井廣助君之碑 |
軍事遺物 |
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日露戦争に従軍し、乃木大将率いる第3軍第15聯隊第7中隊の小隊長として奮戦したが明治38年11月28日に戦死された石井廣助さんの慰霊碑。死後中尉に昇進。 この紀念碑は持田製糸工場の社主であった持田初五郎氏が寄附した招魂社に、同氏が発起人となって明治38年11月28日に建立された。 なお、石井中尉は同地の表忠碑にも合祀されている。 碑高334p、幅140p、厚さ18p。 所在地:中和田公園(横浜市泉区) (刻字) 碑正面: 「石井廣助君之碑(篆額) 陸軍大将正四位勲一等功三級男爵乃木典助篆額 客歳軍興以来我海陸□連戦連勝毎一捷報至泰凱之聲遍都邑群相集乃□□ 称嘆我将士之忠勇遇有年少英□之士殞身鋒鏑者則又相與咨差流□而痛惜 之如石井君之事即其一也君諱廣助神奈川縣鎌倉郡中和田村人也初以志願 兵入營任軍曹編豫備役尋進少尉叙正八位明治三十七年三月召集入第一師 團旋充後備隊第一師團属第三軍攻圍旅順君奮請赴軍九月航遼東為第十五 聯隊第七中隊之小大長十九日攻海鼠山奮戰二日而取之旅順倚天險川壘壁 防守甚厳□□為難攻不陥我軍縦横穿□以環攻之君在敵壘下督穿塹之役數 十晝夜我軍規取爾霊山赤阪山在其側互為□角皆極險要員大擧薄兩山君為 中隊先駆向赤阪山冒大石仰攻戰方□揮□大呼踰其一壘将擧次壘敵彈雨下 終同部下数十人駢死實十一月二十八日也後数日我軍遂陥兩山始收得君尸 時年二十八嗚呼□□先是君巳挫中尉又以□日叙勲六等功五級□茲三月七 日用村葬之儀座遺骨□之□□塋次君為人直實温厚事親孝遇弟妹有恩父仁 左衛門君義侠負名望君佐父理内外事人皆愛其才識大属望移来故聞其死莫 不敬慕而深惜之葬之日遠近来會者三十餘人弔祭文至八十餘通有志之士相 謀相地立石徴余文□□傳□ 明治三十八年十一月廿八日 貴族院議員錦□間祇候従三位勲二等小牧昌業撰 貴族院議員錦□間祇候正四位勲三等金井□恭書 田淵富蔵刻」 碑裏面: 「故石井中尉紀念碑建設費寄附者人名 發起人 持田初治郎 賛助者(8名) 寄附者(6名)、持田第二工場主任(5名)、有限責任生糸販賣組合(84名)」 |