平塚市戦歿英霊 手向けの塔(光圓寺) |
軍事遺物 |
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中央の宝篋印塔は、明治初年までは平塚八幡宮にあったものであるが、神仏分離のため光圓寺に移され放置されていた。昭和31年に平塚観光協会が2381柱の戦没英霊を合祀した慰霊塔として復旧し、当時の市長によって「平塚市戦歿英霊手向けの塔」と命名された。 塔の下には戦没者の名が書かれた大磯海岸の石(さざれ石)が布袋に納めて安置されている。 手前の円柱石碑は春日神社の旧鳥居を用いたもの。 所在:光圓寺(平塚市) (刻字) 碑文: 「手向けの塔由来 この宝篋印塔は もと平塚新宿鶴峰山八幡宮の境内にあったもので記録に承和二〇年□月十□日の刻ありとみえている石塔である 明治初年神佛分離の際□僧光圓坊に移され 長らく荒廃にゆだねたまま放置してあったが昭和三十一年晩秋平塚観光協會によって再興され 塔内に明治大正翔和を通して戦歿した當市に由縁をもつ人々の芳名が□□められた□□れは平塚教育界の父とも言われる櫻井□翁 の悲願と努力になるものである よって市長戸川貞雄氏は平塚市戦歿英霊手向けの塔と命名した かくてこの浄圓は□平和の□として散華した幽魂の□□□□の供養塔になったのである」 円柱石碑: 「平塚市戦歿英霊 手向けの塔 桜井□(しん)謹書 別當 廣藏寺本空代□□ 昭和三十二年七月 平塚観光協會 建立費寄附 *基部に寄附者芳名」 歩道石柱: 正面「平塚市戦歿英霊 手向けの塔 當所境内」 裏面:「手向けの塔造立発願者 桜井□(しん) 敬書」 左面:「鶴峰山等覚院光圓寺」 | |
歩道石柱 |