忠魂碑(富士浅間神社) |
軍事遺物 |
戻る |
草加市瀬崎町における西南戦争以降の戦病没者53柱(西南戦争1柱、日清戦争1柱、日露戦争1柱、日支事変2柱、大東亜戦争48柱)の忠魂碑。裏面には、日露戦争、日支事変。大東亜戦争出征者の氏名及び同碑建立の寄附者芳名が刻されている。昭和61年3月建立。
合祀者の内、西南戦争戦没者福田已之助さんの招魂碑が同境内に建立されている。 碑横には、広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑碑文「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」に代わる碑文として、パール判事によって書かれた碑文(大亜細亜悲願之碑)が掲げられている。 所在:富士浅間神社(草加市) (刻字) 碑正面: 「忠魂碑 靖国神社宮司松平永芳謹書 今茲に、西南の役、日清、日露両戦役 更に、日支事変を経て、大東亜戦争の終結を契機として、一億同胞が平和にして豊かなる良き時代を享受し得るは、一に戦争犠牲者に依って、培われたからである。 当瀬崎町に於ても、戦争勃発と同時に召集令状を受けたる屈強の青壮年多数が、家を後にして凍りつく厳冬の荒野に、灼熱の赤道直下に、将た又果てしなき太平洋の彼方に悪戦苦闘して、祖国の安泰を念じつゝ奮闘せしも、遂に五拾参名の勇士が異国の地に散華せられたのである。真に痛恨の極みであり衷心より御冥福を祈念すると共に、私達を始めとして、後世の人達が戦争の悲劇を肝に銘じ、再びこの惨事を繰り返す事のなきよう凡ゆる総意と、叡智を結集して行く事を御誓い申し上げる次第である。茲に戦歿者の氏名を刻して、後世に伝えるべき碑を建立す 昭和六十一年三月吉日 忠魂碑建設委員会 戦歿者氏名 戦歿年月日 故福田已之助 明治十年三月十二日 飯田福蔵 〃二十八年三月十三日 谷古宇茂吉 〃三十七年十二月十二日 浅古萬五郎 昭和十三年九月十一日 浅古長三郎 〃十三年十一月十四日 山ア年雄 〃十七年八月七日 福田清造 〃十八年五月八日 高橋栄三郎 〃十八年九月二十八日 高橋庄一郎 〃十九年二月二十四日 深石靖治 〃十九年五月十日 浅古繁治 〃十九年六月八日 晝間憲治 〃十九年七月三日 関利喜蔵 〃十九年七月十八日 平塚恒吉 〃十九年七月十八日 須田二郎 〃十九年七月十八日 泰磨銀太 〃十九年八月二十九日 豊田勘蔵 〃十九年八月二十九日 白石正市 〃十九年九月九日 会田安吉 〃十九年九月十六日 安藤賢蔵 〃十九年九月二十九日 田村国守 〃十九年十月二十二日 篠田勝太郎 〃十九年十月三十一日 船戸市五郎 〃十九年十一月十三日 石川忠五郎 〃十九年十一月十九日 谷古宇三郎 〃二十年二月十一日 茂木菊太郎 〃二十年二月十四日 山本仁三郎 〃二十年二月二十二日 故関根精一 昭和二十年三月三日 豊田市郎 〃二十年三月四日 金子金三郎 〃二十年三月十七日 浅古清二 〃二十年三月十八日 浅古兼吉 〃二十年三月二十日 谷古宇義雄 〃二十年四月四日 島根三郎 〃二十年四月五日 浅古大一郎 〃二十年四月二十七日 浅古富士雄 〃二十年五月六日 大竹賢三 〃二十年五月十日 渋谷勇 〃二十年五月十九日 切敷松雄 〃二十年五月二十五日 熊井菊蔵 〃二十年五月二十九日 竹内松蔵 〃二十年七月十日 浅古好蔵 〃二十年七月十六日 福島仙太郎 〃二十年七月三十一日 伊藤栄三郎 〃二十年八月二日 飛田金次 〃二十年八月十四日 泰磨富蔵 〃二十年八月十六日 小野塚作一 〃二十年八月十六日 神戸太郎 〃二十年八月十八日 丹羽久蔵 〃二十年八月二十日 船戸善一 〃二十年十月十八日 小野寺末治 〃二十年十一月四日 浅古佐七 〃二十年十二月十六日 白石春吉 〃二十三年一月二十九日」 裏面: 「出征者氏名 日露戦争(23名氏名)日支事変 大東亜戦争(多数氏名) 寄附者芳名(金額順に氏名)」 「真理 激変し変転する歴史の流れの中に 道一筋につらなるいく多の人達が 万斛の思いを抱いて死んでいった。 しかし、 大地ふかく打ちこまれた悲願は消えない。 抑圧されたアジア解放のために その厳粛なる誓いに、 生命を捧げた魂に幸あれ。 ああ真理よ、あなたは我が心の中に在る。 その啓示にしたがって我は進む。 パール判事」 |