平和記念碑(大通り公園)

軍事遺物
戻る

昭和20年5月29日に行われた横浜大空襲の犠牲者の遺族らが発願し建立された平和記念碑。 愛・平和・地球を象徴したブロンズ製のモニュメントの前面に書籍をかたどって碑文が刻まれている。 そのページは51ページであり、次のページにはその英訳が刻まれている。 空襲から47年後の平成4年5月29日、横浜市遺族会によって建立された。
場所は、中区大通り公園ではあるが、その最西端、阪東橋駅近くの南区との境である。
所在:大通り公園(中区)
(刻字)
台座正面:「平和記念碑 横浜市長 高秀秀信」
(由来碑文)
「平和記念碑 由来之記
 1941年12月8日 日本軍の米国真珠湾軍港に対する奇襲攻 撃により 大日本帝国は 連合軍との間に戦端を開くに至った。
その後1945年8月15日に至り わが民族の滅亡を憂うご聖断 により漸く敗戦の日を迎えた。
 その間 三年九か月余。政・軍・官の情報統制の下 一般庶民は 戦争の実相を知らされることなく ひたすら盲従を強いられた日々 であった。 戦線が次第に日本本土に近づくにつれ 米軍機による 空爆は熾烈を極め 国内百数十の都市が軍事施設・民間施設の別な く攻撃を受け 非武装の一般民衆が多数犠牲となった。横浜はこの 間三十数回の空爆をうけた。特に1945年5月29日白昼 当時 世界最大級の重爆撃機B29五百機 随伴戦闘機P51百余機の連合 軍機により 市内は絨毯爆撃を受けること一時間余。 焼夷弾換算 四十三万余発の投下により市内は焦熱地獄の様相を呈し 非武装の 民衆に万余の犠牲者を生じせしめた。
 この地に戦火止みて既に四十数年の歳月が経過したが 残された 遺族の心の傷は今なを癒えることはない。当時を知る遺族も その 多くは鬼籍に入り 犠牲者達の恒久平和を希求する声なき声を伝う べきよすがとて失われようとしているこの時 遺族縁類相倚り相扶 け 私財を投じ 心ある市民の合力を得て 平和記念碑建立を発願 した。
 祈念碑回廊中には犠牲者の姓名を彫刻し そのアイデンタティを 復活せしめ 共に手をずさえて平和のメッセージを伝え 全世界 において我らが子々孫々に至るまで戦争の惨禍におびえることなく 恒久平和を享受出来る世界の実現を願い 惻隠の情を意味する「愛」 と 飢餓のない世を理想とする「平和」の文字を 我らのいのちを 支える「地球」に配して象徴とした。幸い 横浜市会代表の正・副 議長殿の賛同を得 国会・県議会有志議員諸賢 神奈川県知事殿の 賛意を得た。題字には 横浜市長 高秀 秀信殿のご揮毫になる 「平和記念碑」の彫刻を付し 横浜市からは施設設置許可を受け この地に恒久平和実現の為の一里塚として この碑を建立した。
 除幕式には 国際連合駐日代表殿 広島市長殿 長崎市長殿 世界各地のピース・メッセンジャー都市首長殿から 多数の献辞が 寄せられた。
 この人類至高の祈りが 志ある人々により継承発展され 犠牲者 も平和の使徒の先駆者として 至福の時を 共に迎える日の近きこ とを信ずる。
   1992年5月29日 横浜戦災遺族会 会長 池谷榮一撰
              −51−」