慰霊碑(住吉神社脇) |
軍事遺物 |
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昭和19年11月30日、田奈部隊へ動員されていた横浜第二中学校4年生が乗っていたトラックが川に転覆、その時に亡くなった6人の生徒を慰霊する碑。「田奈の悲劇」と呼ばれたこの事故は、動員先の田奈部隊へ向かう中学生を乗せた3台のトラックが、途中対向してきた将校の軍用車を避けようとして、1台が奈良川に転覆し、脱出できなかった6名が亡くなったという。戦後、現場には木製の標柱が建てられていたが、老朽化したため、昭和28年11月30日(除幕式は11月29日)に改めて慰霊碑が建てられた。 横浜第二中学とは、現在の神奈川県立翠嵐高校である。翠嵐高校や関係者らは、昭和61年にブックレット、平成27年には学校内に「平成田奈部隊学徒勤労動員生徒殉難者追悼モニュメント」を設置するなど事件を語り継いでいる。同校同窓会のHPでも詳しく掲載されている。 碑高107cm、幅90p、厚さ17p、台石25cm、台座40cm 所在:住吉神社脇(青葉区) (刻字) 碑正面: 「慰霊碑 横濱第二中學校生徒の遭難をいたみて 六つのみたま ここにしづまる 田奈の川花もふりそゝげ 雪もみだれよ 国學院大學教授 武田祐吉」 碑裏面: 「 昭和十九年かの戦のさ中に 田奈部隊へ 動員の吾が同窓、勤労に赴く朝、はからざりき この川渡りに自動車覆りて、束の間に若き六人の生命を奪ふ。九度めぐり来し想いで 悲しきこの日、昔の友がら 今泉正三・漆原光一 辻義雄・鳥羽盛良・西谷基一・山口渡 を悼みてこの碑を建つ。 昭和二十八年十一月三十日 横浜第二中学校 二十八期生一同」 | |
説明板(右) 「慰霊碑 横浜第二中学校生徒の遭難をいたみて 六つのみたま ここにしづまる 田奈の川花もふりそゝげ 雪もみだれよ 国学院大学教授 武田祐吉 昭和十九年かの戦のさ中に 田奈部隊へ 動員の吾が同窓、勤労に赴く朝、はからざりき この川渡りに自動車覆りて、束の間に若き六人の生命を奪ふ。九度めぐり来し想ひで 悲しきこの日、昔の友がら 今泉正三・漆原光一 辻義雄・鳥羽盛良・西谷基一・山口渡 を悼みてこの碑を建つ。 昭和二十八年十一月三十日 横濱第二中學校 二十八期生一同」 説明板(左) 「六つのみたまに 第二次世界大戦下一九四四年(昭和十九年)五月、旧制神奈川県立横浜第二中学校(現神奈川県立横浜翠嵐高等学校)四年生の生徒たちは、国の命令で学業の間に生産労働力不足を補う学徒勤労動員から、全学業を投げ捨て、一戦力として東京陸軍兵器補給廠田奈部隊(現こどもの国)へ全員通年動員派遣され、ひたすら必勝を祈念しつつ、約一〇〇万uの丘陵や谷戸の地形を巧みに利用し分散配置された構内全施設で、あらゆる作業に懸命に働きました。 当時の田奈部隊は、全国各地の兵器廠・軍需工場から輸送される各種火薬や砲弾部品・弾薬類の地下弾薬庫・倉庫への格納保管。前線部隊への完成弾薬の補給発送。弾薬製造工場での対空高射砲弾・野戦用各種砲弾から肉薄戦用手投げ弾・特攻用爆薬兵器まで十指に余る弾薬類生産等……日本有数の弾薬類取扱いの一大軍事兵器生産・備蓄施設でありました。 あの戦争、敗戦。焦土からの復興……私達の人生の記憶から消し去れぬ経験です。そして十一月三十日。あの忌まわしい出来事により無残無念、非業の死を遂げた、同期の僚友達の冥福を祈るためと、再び戦争を起こさない不戦の誓いを込めて建立した、この慰霊碑に残した史実と願いを、正しく語り継ぐことは、私達の永遠の使命であり責務であります。 あれから六十有余年。戦後駐留米軍接収の田奈弾薬庫時代を経て、皇太子殿下(現天皇・皇后両陛下)ご成婚記念に、両陛下のご意思を戴して一九六五年(昭和四十年)自然の緑溢れる環境に開園された「こどもの国」に、元気な子供達の歓声が響きわたる、平和の日々がいつまでも続くことは、今まで生き永らえた我々昭和の語り部たちが希求する願いです。 二〇〇六年(平成十八年)十一月三十日 神奈川県立横浜第二中学校二十八期生 ふたば会有志一同 神奈川県立横浜翠嵐高等学校同窓会 翠嵐会」 |