戦病没者合同慰霊碑(徳寿院跡)

軍事遺物

村岡御霊神社脇にある徳寿院の跡地に建立されている慰霊碑。同寺は曹洞宗の寺院で明治中期に廃寺になっている。
この碑は、宮前地区における日中戦争、太平洋戦争の戦没者9柱を合祀した慰霊碑である。 正面に英霊の戒名、裏面に所属、階級、戦病没の経緯等の詳細が刻まれている。 施主は祀られた9柱の親兄弟である。
昭和24年3月21日に建立されたが、刻字の状況から当初は7柱で後に2柱を追祀したことが推測される。 碑に比して広く玉垣が築かれている。
所在:徳寿院跡(藤沢市)
碑高185p、幅81p、厚さ14p、台石高50p。
(刻字)
碑正面:
「忠彰院青峨由照居士 勇健院義鑑日昭居士 青勲院善譽殉國居士 義傳院法乗武光信士 義眞院法光一乗信士 光明院精忠日勇居士 誠憧院與道勇進居士 霜空院勇芳政道居士 義照院喜勇得道居士  各霊位」

碑裏面:
「忠彰院 勲八等功七級陸軍兵長青木由雄二十才 青木熊次郎四男昭和十四年八月二十七日ノモンハンにて戦死
勇健院 正七位勲五等功四級陸軍大尉林孫太郎東大農學部實科卒業 昭和十二年八月支那事変ニ應召上海杭州徐州ヲ経テ漢口戰ニ參加蘆山攻略後十三年十月廿五日徳安縣心佛寺北方ニ於テ手榴彈ヲ頭部ニ浴ビ戰死ス行年卅歳 林治平長男
青勲院 勲八等陸軍兵長青木常雄昭和十三年一月綏遠省?拉齊騎兵第十三聯隊第一中隊ニ入隊無線係トシテ各地ニ轉戰十八年九月病ヲ得同年十二月小倉陸軍病院ニ後送十九年一月廿五日同病院ニ於テ戰病死ス行年廿六歳 青木善吉四男
義傳院 勲八等陸軍兵長羽太武昭和十二年九月支那事変ニ出征上海郊外小宅ノ激戰ニ於テ偉勲ヲ樹テ十三年十一月歸還十月再度應召南方各地ニ轉戰中十九年二月十六日敵潜艦ノ攻撃ヲ受ケ比島沖ニ散華ス行年卅六歳 羽太重晴父
義眞院 勲七等海軍兵曹長林三一昭和十年一月横須賀海兵團入團軍艦鳳翔及多摩ニ乗組作戦ニ從フ太平洋戰爭起ルヤ潜艦松風ニ轉乗輸送船護衛中十九年六月九日小笠原海域ニテ敵潜艦ト交戰艦爆沈ノ爲戰死ス行年卅一歳 林萬五郎三男
光明院 從七位勲六等陸軍中尉林光男横浜商専卒業豊橋士官學校卒業後昭和十八年一月南支ニ出征雷州ヲ轉戰中桂林作戰ニ參加十九年十月十二日桂平附近ノ渡河戰ニ於テ敵戦闘機ノ機関砲彈ヲ腹部ニ受ケ戰死ス行年廿五歳 林治平次男
誠憧院 勲八等陸軍伍長林三郎昭和十三年七月支那事変南京攻略戰ニ武勲ヲ樹テ十五年四月内地ニ歸還ス太平洋戰爭ニ再度應召シビルマニ轉戰中「メイクテイラ」ニ於テ敵ノ包囲攻撃ヲ受ケ廿年三月三日戰死ス行年卅歳 林利八三男
霜空院 勲八等陸軍伍長青木政雄昭和十二年十月支那事変勃発ト共ニ上海戰ニ參加十三年三月歸還ス十六年十二月再度應召ビルマ國ニ轉戰中廿年五月五日バタン東南七十粁ノ地点ニ於テ追撃砲彈ヲ受ケ戰死ス行年卅歳 青木仲太郎五男
       昭和二十四年三月二十一日建之  六名 共同所有當敷地代表者 青木源太郎
義照院 勲八等白色桐葉章陸軍兵長川島喜之助三十六才 川島忠蔵長男 昭和二十年四月十五日西部ニューギニアにて戦死」
台座裏面:「施主 父 林治平  兄 青木源太郎  長男 羽太重晴  父 林萬五郎  父 林利八  兄 青木丹十郎  甥 青木潔  長男 川島清」

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