常陸丸殉難近衛後備隊将士之墓(青山霊園)

軍事遺物

日露戦争における常陸丸事件の殉難者を合祀した墓標である。鳥居が付属する立派なもので、明治37年8月20日に建立、同年10月30日に慰霊祭が行われた。碑の裏面に「壮烈碑」という篆額と碑文が刻まれているが、碑文は判読困難である。詳しくは説明板を転載する。
所在:青山霊園(港区)

(説明板)
碑正面:「常陸丸殉難近衛後備隊将士之墓」
碑裏面:「壮烈碑(篆額) 〜(碑文)〜  明治三十七年八月二十日建之  殉難者氏名 〜(須知中佐以下の殉難者氏名)」
説明板:「常陸丸殉難 近衛後備隊将士之墓  明治三十七年(一九〇四)日露戦争が勃発し、同年六月十四日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知中佐は、その第 二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸に乗船して宇品を出港し、勇躍征途に就いた。翌十五日午前十時頃、 沖ノ島附近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として三隻の敵艦が現われ、猛砲撃を加えてきた。もと もと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術なく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山 村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。
 野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄も、海上では如何とも為し難く、今はこれまでと覚悟した聯 隊長は、皇城を遥拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も、無念の涙 を飲んで玄界灘の波間に没した。
 武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口の膾炙し、人々はその悲運の最期を悼 んだ。
 明治三十七年十月三十日、殉難者墓碑を建設し、近衛隊の英霊六百三十五柱の遺骨、遺髪、遺品、写真などを 納め、神式および佛式で盛大な慰霊祭が執り行われた。
 昭和六十一年六月十五日
  殉難八十二周年慰霊祭にあたり誌す 常陸丸遺族会  全国近衛一会」