軍艦畝傍乗員哀悼之碑(青山霊園)

軍事遺物

フランスに発注された巡洋艦「畝傍」は日本への回航途中で行方不明となり、外国海軍の協力も得て行った捜索にも関わらず遺留品一つ発見されず、海軍は明治20年10月19日に亡没と認定し、乗組員も死失と見做された。
よって、明治21年12月、殉職海軍将士の墓と共に水交会によって乗組員の慰霊碑が建立された。碑は茨城産寒水石で、高さ3m、幅2.1m、厚さ39p。篆額の下に伊藤少将の碑文が刻まれている。右上に割れた跡があるが関東大震災の被害だそうである。台座は御影石製、中央にアーチ形のトンネルが造られた立派なもので、高さ3.15m、幅4.5m、奥行2.1mである。トンネル内部の壁には建碑の由来が刻まれている。
場所は青山霊園で脇には因縁の水雷砲艦「千島」の慰霊碑もあり、このエリアは「畝傍の森」と名付けられた広場になっている。「千島」は「畝傍」亡失のあとにフランスで建造されたのだが、やはり回航途中の明治25年11月30日、イギリス商船と衝突、沈没し多くの犠牲者を出した。この広場には二つの慰霊碑のほかに、「畝傍」関係者9名、「千島」関係者6名の墓標も建てられている。
所在:青山霊園(港区)

(刻字)
碑正面:「(篆額)軍艦畝傍乗員哀悼之碑」
「王政中興海軍首設堅艦巨?隨製隨鑄明治十七年囑法蘭西鍛鐵造船社造之艦名曰畝傍其製三檣雙機長徑三百二十二尺幅員四十三尺艦重三千五百十五噸吃水十八尺九尹裝設巨砲徑二十四拇者四座輕砲十五拇者七座及捷射快發諸砲十餘架水雷砲四管而汽機五千五百馬力一時駛十八海里十九年二月艦略成海軍少佐從六位福島虎次郎海軍大尉正七位勳六等飯牟禮俊位海軍上等兵曹市村松爾海軍上等兵曹新庄憲雄海軍機關師勳八等佐藤專一郎海軍船匠師網谷幸吉海軍一等機關手古内松次郎奉監視之命赴法蘭西福島虎次郎途罹疾以同年七月卒法蘭西十月艦?成而艤飯牟禮以下及海軍大機關士從七位森友彦六海軍少技士候補生杉成吉與法蘭西艦長路斐布爾副艦長虞塞勒尉官阿魯邊耳機關長得士普烈亞以下七十四人?駕而發華貌兒港森友彦六命在英吉利者杉成吉自成童在法蘭西修造學者也?而航地中海風浪大起經印度洋達新嘉坡十二月三日解纜向本邦而駛過二旬不達會有支那洋颶起之報?令艦隊司令官以扶桑海門二艦搜索南西海路繼遣明治長門二船搜索臺灣非里比納群島沿海先是英吉利艦隊司令官哈迷屯派?麾下數艦而求之亞米利加軍艦亦搜焉皆不得詳其所在官深患之尋求無所不至而不能得二十年十月十九日發令曰畝傍艦發新嘉坡後竟不得其踪跡認定做艦沒人死爲之處分焉嗟夫痛哉汝壯士不幸而遇非常之災檣折機敗施其術而不能救遂殞其命歟彼蒼者天奪此干城誰告誰訴顧備邊之策國家急務而其要專在海軍今乃使有爲之士不幸殞命嗟夫痛哉雖然臨危授命視死如歸此固武臣之本分汝壯士斃此災與戰而死者何擇乃其忠魂義魄永護社稷爲邊海之防禦也必矣海軍將校某謀建哀悼之碑中外志士捐貲賛助於是屬余碑文余也不嫻文字然造艦之事會與焉義不可辭謹叙其顛末云
海軍少將從四位勳三等 伊藤 雋吉撰弁書」

台座内壁:「明治二十年十月海軍將校之欲爲軍艦畝傍乘員建哀悼之碑也水交社長海軍少佐威仁親王大嘉之以利國等八人爲委員利國等乃謀遺族相地於青山各埋遺物以爲招魂之所越十一月廣告是學於四方相貲助之者實二萬一千餘人而其金六千餘圓也乃五千五百餘圓充建碑之費藏其餘於水交社以永爲修補之費明年十二月碑成高十尺闊七尺厚一尺三寸常州所?寒水石也礎高十尺五寸闊十有五尺厚七尺藝州所?花崗石也繞以石垣鐵柵長二百五十有二尺設階二十有五級利國等與是擧未始期如此壯旦麗也幸得四方之賛助愈極其美庶幾是以慰死者之幽魂矣謹書其由於碑文之後云
建碑委員 海軍大佐從五位黝三等 兒玉 利國 海軍大佐正六位勳四等 鮫島 員規 海軍少佐從六位勳五等 田代 郁彦 海軍大尉正七位 石田五六郎 海軍大尉正七位勲五等 玉利 親賢 海軍大主計正七位 岩井 半吉 海軍大技士正八位 澤 鑑之亟 海軍少主計正八位 片桐酉次郎」

〇「畝傍」関係者墓標
海軍少佐福島虎次郎 夫妻
海軍大尉正七位勲六等飯牟禮俊位
海軍小技士候補生杉成吉
海軍上等兵曹新庄憲
海軍船匠師網谷幸吉
海軍大機関士従七位森友彦六
海軍上等兵曹市村松爾
海軍機関師勲八等佐藤専一郎
海軍一等機関手古内松次郎

(説明板)
「巡洋艦「畝傍」と水雷砲艦「千島」は、いずれも明治時代にフランスで建造された軍艦です。「畝傍」は、日清両国の対立が決定的となり、清国北洋艦隊に対抗しうる海軍力の増強のため、財政上の困難の中発注されたものです。「千島」は、海軍公債発行による特別費で、当初は通報艦として建造発注されたものです。両艦とも、建造後間もなく、消息を絶ったり沈没するなどの悲運に見舞われました。正面の石碑は、海軍将校の親睦団体であった水交社が明治21年12月に建立した「軍艦畝傍乗員哀悼之碑」です。参道の左右には、飯牟礼俊位大尉ほか7人の乗組員の墓標が並んでいます。また、右側に並んでいるのは、「千島」で殉職した6人の墓標です。
「畝傍」(3,615トン)は、竣工後直ちにルアーブル港を出港し日本に向いました。同艦には、艤装や回航のために派遣された飯牟礼大尉(海軍兵学校第5期)ほか7人の日本人とフエブル中尉ほか75人のフランス側乗組員が乗艦していました。 明治19年10月18日、ルアーブルを出港した「畝傍」は、天候不良で風波が高く、艦の動揺が大きく航行に危険を感じたので引き返し、翌19日、天候の回復を待って再出港しました。地中海では猛烈な暴風雨に遭い、大揺れに揺れたので主砲1門を下したといわれています。その後インド洋の荒海を乗り越え、シンガポールに到着、12月3日出港、モンスーン最盛期の南シナ海、台湾海峡へ向かいましたが、以来消息を絶ちました。
「畝傍」は遅くとも12月13日ごろには横浜に到着するはずでしたが、年が明けた明治20年正月になっても音沙汰がありませんでした。海軍当局は、軍艦「扶桑」「海門」や、逓信省灯台局所轄の「明治丸」、日本郵船鰍フ「長門丸」で小笠原からフィリピン一帯を捜索しました。またイギリス海軍東洋艦隊所属の軍艦2隻及び米国軍艦も捜索に協力しましたが、乗員の遺体・船体・船具の破片など何一つの手掛かりも得られませんでした。荒天による沈没、火薬庫の爆発、海賊、暴動などの憶測が飛び交いました。
明治20年10月19日、海軍省は「畝傍」が消息を絶ったことを認定しました。明治21年、保険金65万フラン(120万円)で。「畝傍」の代艦である「千代田」がイギリスのタムソン社に発注されました。
砲艦「千島」(750トン)は、魚雷兵装が強化されていたので、水雷砲艦といわれていました。 同艦は、日本側回航員及びフランス側乗員合わせて90名が乗り込み、明治25年4月18日に日本に向って出港しました。瀬戸内海に入った頃には風波が激しく、船体は30度も傾斜するありさまでした。 11月30日、午前4時20分ごろ愛媛県和気郡堀江沖、奥居島と睦月島との間で英国ピーオー社所有「ラベンナ号」の船首が「千島」の中央部に激突。「千島」は汽缶が爆発し、4時58分沈没しました。この時「ラベンナ号」に救助されたのは、士官2名・下士官13名の日本人と、フランス人1名の計16名だけであったといわれています。
なお、広島県呉市の呉海軍墓地に、畝傍乗組下士官兵の碑があります。また、松山市堀江町浄福寺境内には「千島遭難碑」があります。 参考:日本海軍史(財団法人海軍歴史保存会 編集)  東京都建設局」

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