鎮魂 歩兵第六十一聯隊(和歌山県護国神社)

軍事遺物

歩兵第六十一聯隊は日露戦争の際に編成された部隊で、戦後も満洲の守備についていたが、明治40年帰還、明治42年から和歌山を衛戍地と定める。第四師団の隷下で各戦いに参加、タイで終戦を迎え昭和21年復員解隊となる。 場所は県立和歌山商業高等学校の周辺である。
碑は昭和55年5月に和歌山県護国神社の参道沿いに建立された。碑は基壇上に建てられた赤御影製で、基壇下の左右に碑文が刻まれた副碑が添えられている。
所在:和歌山県護国神社(和歌山市)

(刻字)
碑正面:「(五芒星) 鎮魂 歩兵第六十一聯隊」 裏面:「昭和五十五年五月吉日 第十七代聯隊長 鵜澤尚信書」
台座裏面:「合祀部隊名
第一〇四師団 歩兵第一六一聯隊 第三四師団 歩兵第二一八聯隊 第一七師団 歩兵第五三聯隊 第二〇師団 歩兵第七八聯隊 第二〇師団 歩兵第八〇聯隊 第二五師団 歩兵第七〇聯隊 第四四師団 歩兵第九四聯隊 第三八師団 歩兵第二三〇聯隊 第一四四師団 歩兵第四一五聯隊 第一四四師団 歩兵第四一六聯隊 独立混成第二旅団 独立歩兵第三大隊 独立歩兵六七大隊 第六八師団 独立歩兵第一一七大隊 独立混成第三七旅団 独立歩兵第二六七大隊 独立混成第七二旅団 独立歩兵第五四二大隊 独立混成第三七旅団 独立歩兵第五四三大隊 独立混成第三七旅団砲兵隊 独立混成第三七旅団通信隊 野戦補充隊水上勤務第四二中隊 第五三兵站地区隊」

(右碑文)
「 明治三十八年八月八日軍旗を拝受、歩兵第六十一聯隊誕生す。日露戦役のあと和歌山市を衛戍地とし、郷土部隊として県民に親しまれ、信頼されつゝ国土の防衛に任ず。昭和十二年四月北満の警備と治安維持に出動同十四年八月第二次ノモンハン事変に派兵さる。同十五年七月中支湖北省に転進 常に第四師団の主力として漢水、豫南、大洪山 江北、長沙の各作戦に参加して奮戦す。 昭和十六年十二月第二次世界大戦勃発するや同十七年二月比島ルソン島に進撃、第二次バタアン攻略戦に敵主陣地サマット山を撃破引続き米極東軍の難攻不落を誇ったコレギドール島要塞に敵前上陸を敢行し占領、本間雅晴軍司令官より部隊感状を授与さる。昭和十七年七月凱旋、同十八年十月 スマトラ島に進駐、同十九年五月ビルマのインパール作戦の援護に転戦、同二十年二月タイ国に移駐、昭和二十年八月十五日中部ナコンナヨクの山中にて終戦を迎え、軍旗を奉燃し、茲に栄光の幕を閉ず。

(左碑文)
「 日本国の防人として ひたすら永遠の平和を目ざして 栄えある軍旗のもと 北満の野に はたまた中支南方戦線にその青春の純潔を捧げ 自ら進んで国難に殉じた一万余柱の御霊よ生死を共に相励ましつゝ骨をも凍る酷寒の地にあるいは赤道直下の炎熱と悪疫のジャングルに砲煙弾雨のなか砂塵にまみれ獅子奮迅の死闘に敢然と身を挺したあの元気な懐しき面影よ我等いま過ぎし日の想い出を 辿るとき万感胸に迫りて涙の止るをしらず 戦友の赫々たる武勲は燦然として千載に輝く 天命の定めにより生きながらえた我等今日の平和と繁栄は偏に諸霊の築かれた礎の上にあることに想いを致し衷心より感謝の誠を捧げ情念の心常にして我等の願いを建碑にこめ後世に遺すものである 願わくは御霊よ此処に鎮まりて倶会一処の妙果を証せんことを 昭和五十五年五月吉日(一九八〇年) 歩兵第六十一聯隊戦友会」

右灯篭:「散る花に かなしき思ひ 吾生きて」
左灯篭:「殉国の友の残せし勲しを 碑として永遠に称えむ」

碑の傍らには、聯隊で使われていたコンクリート製の屋外円卓が保存されており、脇の石柱にその説明が刻まれている。
「この円卓子は元歩兵第六十一聯隊酒保のフジの棚下にあったもので、当時兵士□が訓練の余暇にこの卓子を囲んで団らんしふるさとをしのんだのである。終戦後この地に移して永くこれを保存するものである。」

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