千島は明治19年12月に消息を絶ち遭難と認定された「畝傍」の代艦としてフランスで建造された水雷砲艦である。回航途中の明治25年11月30日、瀬戸内海(愛媛県和気郡堀江沖)でイギリス商船ラベンナ号と衝突、沈没し、多くの犠牲者を出した。当時、国際事件となり「軍艦が商船に沈没させらる」など大々的に新聞で報道され話題を集めた。日本政府と英国の商船会社側双方が訴訟を起こし、2審で日本政府は敗訴するが、上告し、結局、日本政府はわずかな賠償金で和解することになった。明治28年9月であった。
千島乗組殉難者の追弔会は明治25年12月3日、沈没現場最寄りの松山市善勝寺で行われた。
また、士官6名の葬儀は明治25年12月8日青山墓地で行われ、墓碑には明治25年11月30日卒と刻まれている。いずれの葬儀も生還した船長の鏑木大尉が弔詞を朗読している。
場所は、因縁の畝傍殉難者の霊域であり、畝傍殉難者墓碑の背後に千島士官の墓碑が並んでいる。また、見上げる大きさの畝傍哀悼碑の脇に砲身型の千島の哀悼碑が建立されている。
砲身には軍艦千島乗員死者哀悼之碑の文字が刻まれ、碑の周囲は砲弾を用いた柵で囲われている。この一画は「畝傍の森」と名付けられ畝傍、千島の由来の説明板が設置されているので、下記に記す。
所在:青山霊園(港区)
(刻字)
碑正面:「軍艦畝傍乗員哀悼之碑」