竹橋事件殉難者鎮魂碑(青山霊園)

軍事遺物

竹橋事件とは、明治11年8月23日から24日の深夜から早朝にかけて、西南戦争の論功行賞などに不満を抱いた近衛部隊の将兵が天皇への直訴を求めて起こした武装反乱である。 反乱は同日に鎮圧され、関係者らは銃殺や流刑、除隊などの処罰を受けた。遺体は青山墓地に埋葬された。後日、恩赦を受けたことで処刑された方々の墓標が建立された。
太平洋戦争後、この事件のことを調べていたノンフィクション作家の澤地久枝さんらが、殉難者の鎮魂と事件を後世に残すために昭和62年10月15日に建立した。
この場所は事件殉難者の墓標がある竹橋事件の慰霊の地となっており、案内板も建立されているので合わせて下記に紹介する。
碑高98p、幅156p、厚さ20p、台石高48p
所在:青山霊園(港区)

碑正面:
「この碑は、一八六七年(明治11年)八月二十三日夜に起きた「竹橋事件」殉難者の鎮魂のためのものである。事件は東京竹橋にあった、近衛砲兵大隊の兵士を主力に東京鎮台予備砲兵第一大隊、近衛歩兵第二聯隊の同調者をまじえて、将校、下士官の連座者をふくみ、日本陸軍史上唯一の兵士の叛乱となった。三百余人が、待遇改善その他の要求をかかげて直接行動に訴えたのである。兵士たちはすべて徴兵によって陸軍にとられ、その多くは、前年の西南戦争の戦火をくぐりぬけて命をひろっている。徴兵制度への根本的疑問、明治維新以後の政治に対する不満が、天皇への直訴をふくむ行動へ兵士たちを馳りたてていった。生れ在所の百姓一揆の伝統、のちの自由民権運動につながる志向も、兵士たちをささえる火であったと思われる。
叛乱は鎮圧され、同年十月十五日、兵士五三名が深川越中島で銃殺刑になり、遺体は青山墓地に埋められた。現在の都立赤坂高校正門付近と推定される。
一八八九年(明治二二年)帝国憲法発布にちなむ大赦ののちに、福井清介、内山定吾らの発起により、計五六名の事件殉難者を祀る「旧近衛鎮台砲兵之墓」が埋葬地に建立された。
この墓は、第二次世界大戦末期の混乱で行方不明になっていたが、百回忌にあたる一九七七年十一月、現在地に移されているのを発見した。
事件の真相は明治政府によって抹殺され埋歿せしめられ忘れられた歳月が過ぎたが、全国的な研究と調査がすすみ、ようやく全容があきらかになろうとしている。
たたかい、かつ踏みにじられた明治の青春の記念としていまここにこの碑を建て、「竹橋事件」が後世に伝えられるべき火となることを願う。
この碑は、遺族をはじめ事件にかかわったわれら一同の反戦平和への悲願の証でもある。
一九八七年十月十五日  澤地久枝 撰」」

裏面:
「竹橋事件殉難者名簿
一九七八(明治一一)年一〇月一五日刑死
近衛砲兵大隊兵士
浅見綾次郎 伊藤丈三郎 今井政十郎 岩本久蔵 浦塚城次郎 小川弥蔵 門井藤七 金井惣太郎 菊池作次郎 木島次三郎 木村円解 久保田善作 小島万助 是永虎市 近藤租舟 桜井鶴次 笹井常七 佐藤種五郎 沢本久米吉 新熊保治郎 新家仲吉 高橋小三郎 高橋竹四郎 田島盛介 谷新四郎 辻亀吉 堤熊吉 中沢章治 長島竹四郎 永合竹次郎 野中与吉 羽成常助 馬場鉄市 広瀬喜市 藤橋吉三郎 布施仙吉 松井善助 松宮弁次郎 松本久三郎 宮崎関四郎 水上丈平 見山今朝治 本橋兼次郎 山中繁蔵 山部七蔵 山本丈作 吉田定吉
東京鎮台予備砲兵第一大隊兵士  真田兼松 鈴木直次 高見沢卯助 宮崎忠次 横山昇
近衛歩兵第二連隊兵士  三添卯之助
一八七九(明治一二)年四月一〇日 刑死
東京鎮台予備砲兵第一大隊下士  平山荊 梁田正直
一八七八年八月二三日 自殺
近衛砲兵大隊兵士 大久保忠八」

碑の配置

明治22年の大赦によって福井清介、内山定吾らの発起により、建立された「旧近衛鎮台砲兵之墓」。
碑高155p、幅40p、厚さ27p
碑正面:「旧(旧字体)近衛鎮臺砲兵之墓」
碑裏面:「大赦 明治二十二年二月十一日」
碑右面:」

竹橋事件とは、明治11年8月23日から24日の深夜から早朝にかけて、西南戦争の論功行賞などに不満を抱いた近衛部隊の将兵が天皇への直訴を求めて起こした武装反乱である。 反乱は同日に鎮圧され、関係者らは銃殺や流刑、除隊などの処罰を受けた。遺体は青山墓地に埋葬された。後日、恩赦を受けたことで処刑された方々の墓標が建立された。
太平洋戦争後、この事件のことを調べていたノンフィクション作家の澤地久枝さんが、殉難者の鎮魂と事件を後世の残すために昭和62年10月15日に建立した。
この場所は事件殉難者の墓標がある竹橋事件の慰霊の地となっており、案内板も建立されているので合わせて下記に紹介する。
碑高98p、幅156p、厚さ20p、台石高48p

案内板:
「竹橋事件  墓と碑の由来
「 旧近衛鎮台砲兵之墓」は、一八七八(明治一一)年八月二三日の竹橋事件で死刑に処せられた、近衛砲兵大隊兵士四七名・近衛歩兵第二連隊兵士一名・東京鎮台予備砲兵第一大隊兵士五名・同隊下士官二名および事件当日夜自殺した近衛砲兵大隊兵士一名の・計五六名の墓である。
 下士官二名は、翌一八七九(明治一二)年四月一〇日になって処刑されたが、兵士五三名は事件後二か月足らずの一〇月一五日深川越中島で銃殺され、当青山墓地の陸軍墓所(現都立赤坂高校正門付近)に埋葬された。
 一八八九(明治二二)年の帝国憲法発布に伴う大赦により、墓碑建設が許され、無期流刑から生還した鎮台予備砲兵大隊少尉内山定吾や同志、遺族らの手によって、頭書の墓碑が建立された。
 しかし、第二次大戦後、赤坂高校の建設の際、墓は現在地に移されたという(異説もあって、経緯の詳細は不明)。たまたま隣接地に住む遺族の高樋和夫氏が、独力で墓を探し当て、守って来たが、くしくも、兵士の一〇〇回忌に当たる一九七七(昭和五二)年、作家澤地久枝氏も墓を突き止め、広く世間に紹介した。
 同じ年、麻生三郎氏を中心に、「明治一一年竹橋近衛暴動の真相を追求する会」(現「竹橋事件の真相を明らかにする会」)が結成され、すでに澤地氏が始めていた全国的な遺族の「掘り起こし」を、さらに精力的に進めた。
 その結果、多くの遺族が判明し、一九八五(昭和六〇)年遺族有志によって全国遺族会が発足し、左隣の「合葬之墓」と、合わせた「旧近衛鎮台砲兵之墓」の管理権を、東京都から委譲された。
 「竹橋事件の真相を明らかにする会」の運動も大きく前進し、事件の真相とその意義の解明は本格的な軌道に乗りつつある。
 墓の右隣の碑(撰文澤地久枝)は、この事件を、裏面に刻まれた五六名の殉難兵士たちの名とともに日本の歴史に永遠に留めるため、兵士たちの一一〇回忌を機として多くの人々の思いと協力を集めて、建てられたものである。
 なお、前記「合葬の墓」は明治年間に陸軍刑務所で刑死ないし獄死した兵士の内、引き取り手のなかった一七名を合葬して一九四三(昭和一八)年に建てられた(その経緯も不明)。
 その中には事件に参加して準流刑一〇年に処せられ、獄死した、近衛砲兵大隊兵士市川朝吉・宮崎又作の二名も、含まれている。
  一九七八年一〇月一五日   竹橋事件全国遺族会  竹橋事件の真相を明らかにする会」

このページのトップへ