碑を建立した第三期兵科予備学生は、昭和18年10月に各海兵団に入団しているが、武山海兵団には約1300名が入団。4か月の基礎教程の後、各術科学校に入校、昭和19年の中頃から実戦配備につき、三期生全体の2割ほどの方が戦死されている。碑は自然石に「海軍予備学生」と刻まれたもので、隣に碑文が刻まれた石碑がある。
揮毫の上村嵐は、鹿児島県出身、海軍機関学校卒業(第47期)、太平洋戦争では数多くの海戦に参加、終戦時は海軍兵学校教官。戦後海上自衛隊に入隊し、横須賀教育隊司令等を歴任。昭和44年に海将補で退官されている。
隣接して昭和61年に建立された海軍予備学生の鎮魂碑もある。
所在:横須賀教育隊(横須賀市)
(刻字)
碑正面:「海軍予備学生 上村嵐書」
(碑文)
「海軍予備学生は、太平洋戦争開戦の直前、大学、高等専門学校出身者をもって、第一線指揮官として養成すべく、日本海軍に設けられた制度であった。これに選ばれて参加した若人は二万五千名におよぶ。
各地の海兵団、航空隊、台湾東港、旅順、舘山あるいは各術科学校において夜を日につぐ厳しい訓練と専門教育を受け、しかるのち海軍少尉に任ぜられた彼等は、直ちに戦場に向った。
太平洋全域から印度洋にわたる広大な戦域で、彼等はつねに第一線に立ち、ある者は特攻隊指揮官として勇戦奮闘した。海、空、陸に散華した若人は、その数三千八百名に達する。
当時彼等が訓練をうけたこの地、武山海兵団跡にこの碑を建て、海軍予備学生を永く、後世に伝えようとするものである。
昭和四十五年一月十日 海軍第三期兵科予備学生会」