凛冽の碑(真福寺)

軍事遺物
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日露戦争に出征し鴨緑江会戦、遼陽会戦、旅順攻略戦、奉天会戦などに従軍し、明治38年8月に病死した陸軍砲兵曹長田邊定吉さんの慰霊碑。明治39年8月30日の建立。
題額の「凛冽」とは「寒さの厳しいの意(新大字典による)」。裏面には、建立者5名の氏名が刻まれている。
碑高200cm、幅96cm、厚さ15cm、台石40cm
所在:真福寺(横須賀市)


(刻字)
碑正面:
「凛冽 陸軍少将依田廣太郎書
陸軍砲兵曹長田邊定吉君病死於盛京省清水溝子之醫 院于時明治三十八年八月三十日也行年三十有二先是 日露開戰我第一軍渡鴨緑河陷落遼陽首山堡之堅壘進 包撃奉天府之露軍第二軍與我海軍表裏膠力包撃旅順 港激戰閲十數月露将力竭請隆於是乎勒其全軍至于沙 河與第一軍合攻撃最努當初君以軍曹屬于徒歩砲兵第 一聯隊千里航海以着於旅順包圍軍之部署又轉屬于重 砲兵旅團第三獨立大隊参加乎奉天攻撃之部署旅順對 壘之久身冒敵丸輸送軍餉奉天砲撃萬雷霹靂深慮彈藥 竭之獎勵輸卒漸次運輸毫無遲滞之憂全軍賞其敏捷□ 事君姓田邊名定吉父曰定兵衛神奈川縣三浦郡浦賀町 之人三十七年應于補充兵募集編入乎東京灣要塞砲兵 聯隊三十八年八月三十日任曹長叙功七級賜金鵄勲章 叙勲七等賜青色桐葉章奉天之役露軍大敗我軍追撃遂 駐軍於清水溝子當此時疫疾流行人人自危君奮起曰撃 退露兵則易驅除惡疫則難宜勵行清潔法以斷根元也率 先以期全滅適感病毒面長逝矣蒼天何心奪我良曹長乎 因記君行爲傳之乎不朽云
 明治三十九年八月丗日
 從三位勲三等西岡逾明(撰)并書」
碑裏面:
「 明治丗九年八月丗日建之
 正七位勲五等 近藤銀次郎 福澤辰蔵 高木清次 田邉貞助 田邉九萬三」