紀念碑(西来寺)

軍事遺物
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明治21年に海軍に入営した後、浅間、扶桑に乗組み三等兵曹に昇級し、明治22年には高尾に転属、陸海軍大演習や御召艦の供奉などに従事したが、明治23年7月15日端船での上陸時に事故で殉職した海軍軍人酒井銓次郎の慰霊碑。明治24年9月建立。
碑には野村海軍大佐による篆額「紀念碑」の下に碑文が刻まれている。
上段台石正面には發起人30名の氏名、左側面には建設委員7名の氏名、下段台石には協賛者と思われる氏名が刻まれている。

碑高195p、幅120p、厚さ10p、台石64p。
所在:横須賀市

(刻字)
・正面
「紀念碑(篆額)
海軍大佐従五位勲四等野村貞篆額
海軍三等兵曹氏酒井名銓次郎父橋蔵母西山氏□□□太夫之女以文久
二年正月十日生君於越後長岡君幼帰僧及長剛毅廉直悟緇衣不定有為
焉奮然立志于海軍明治十一年六月遂拜二等若水兵入浦賀水兵分營奉
令守命刻苦不撓勵精勤業明年十二月進一等若水兵始乗軍艦浅間東航
西馳冒風破浪甞辛酸蹈艱難屡進級一四年五月移扶桑十七年五月航于
朝鮮七閲月而歸朝此十二月更被擢任三等兵曹廿二年一月轉高雄明年
四月從軍陸海軍大演習于伊勢海尋供奉□□艦至呉□佐世保両鎮守府
超月而歸品川於是慰其勞下賜酒饌料若□□七月十五日艤小艇欲上陸
弦月早没夜暗々潮聲遠退漁舟少此時風濤□□□蕩走舸洪浪一躍曳君
逝矣嗚呼哀哉君甞曰男児從事于海軍惟耻不葬□□腹今為讖而是見其
平常也爰同僚松原喜義等共謀録石以傳不朽銘曰
  脱却緇衣  籍軍人間  此心□□  □□鋸山
  忠魂義魄  止于品灣  生護□□  □□戒蠻
明治廿四年歳次辛卯秋九月
    海軍大尉正七位勲六等小林春三撰文」
・裏面
「横須賀町坂本 石工 飯塚文左エ門」
・台石正面
發起人
上村岩吉 渡邉庄蔵 夏目亥吉 松下善次郎 山本新吉 山岸太郎吉 古川巻蔵 大瀧慈作
松永竹次郎 廣川浅□ 五味川末吉 森山福松 西澤造□ 植木重輔  近藤岩藏 磯谷八五郎
鈴木熊之 石田和三郎 松島彌兵 鳥羽乙藏 小林政治 捧源八 原愛吉 齋藤乙治 安中得治
加藤捨三郎 羽賀常吉 阿部次郎兵衛 鈴木勇吉 小西銕作
・台石左面
「建設委員
松原喜□ 川島釘作 中山勝太郎 松村岩太 塩坪平三郎 小山清次 神田善吉」

(碑文現代語訳)
『海軍三等兵曹、氏は酒井、名は銓次郎。父は橋蔵、母は西山氏(□□□太夫の娘)である。文久2年1月10日、越後長岡に生まれた。 銓次郎君は幼い頃に仏門に入ったが、成長するにつれて、気性が強く不屈で、清廉かつ正直な人柄となった。そして、僧衣をまとって一生を終えるのは自分の本意ではないと悟り、国家のために尽くそうと決意した。奮然として海軍を志し、明治11年6月、ついに二等水兵に任官して浦賀水兵分営に入った。命令を厳格に守り、苦難に耐えて努力を重ね、職務に励んだ。 翌年12月、一等水兵に進級し、初めて「浅間」に乗船した。東へ西へと航海し、激しい風雨や荒波を冒し、辛酸をなめ、困難を乗り越えながら、たびたび進級を重ねた。 明治14年5月、「扶桑」に移った。明治17年5月には朝鮮へと航海し、7ヶ月の任務を経て日本へ帰国した。この年の12月、さらに抜擢されて三等兵曹に任じられた。 明治22年1月、「高雄」に転属となった。翌年4月、伊勢湾で行われた陸海軍大演習に従軍した。次いで御召艦に供奉して呉、佐世保の両鎮守府を巡り、月をまたいで品川に帰港した。ここでその労をねぎらわれ、酒餞料を下賜された。 明治23年7月15日、銓次郎君は上陸しようとして小艇に乗り込んだ。上弦の月は早くに沈み、夜は暗闇に包まれ、潮の音は遠くへ退き、漁船の姿も少なかった。この時、風浪がにわかに激しくなり、小艇を激しく揺さぶった。大波がひとたび躍りかかると、銓次郎君は波にさらわれ、帰らぬ人となってしまった。ああ、哀しいことである。 銓次郎君はかつてこう言っていた。 「男児たるもの海軍に従事したからには、魚の腹の中に葬られない(海で死なない)ことこそむしろ恥である」と。 今、その言葉が予言となってしまったが、これこそが彼の常日頃からの覚悟の現れであった。 ここに、同僚の松原喜義らが共に計画し、この石碑にその功績を刻んで永く後世に伝えるものである。』