海軍上等兵曹勲七等上崎辰次郎之碑(第二術科学校)

軍事遺物
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日清戦争の明治27年2月、水雷艇隊の威海衛夜襲の際、発射管が凍っていて水雷が発射できなかったことに責任を感じて上崎(こうざき)上等兵曹は自刃した。その忠誠を永久に伝えるために艇長であった鈴木貫太郎ら乗組員達が発起人となり、明治29年竜本寺に碑を建立した。
昭和3年10月に下士官兵集会所田浦支所に移されたが、戦後、昭和43年になって水雷学校跡地である海上自衛隊第二術科学校に移された。
碑の脇には、銅製の魚雷の先端部(隊員曰く)が置かれている。 また、説明板が建てられ、碑の由来が書かれている。

所在:第二術科学校(横須賀市)

(刻字)
碑正面:
「海軍上等兵曹勲七等上崎辰次郎之碑
海軍中将從三位勲二等功三級男爵伊藤雋吉君題碑」
碑裏面:
「上等兵曹上崎辰次郎君碑
君諱辰次郎上崎氏青森縣上北郡人舊會津藩士也萬延元年十二月生于岩代國若松城下年十四入海軍酷苦勵精技術大進 明治七年航臺灣從征蕃役十年西南之役起君及乗軍艦討賊兵十三年任下士官十九年新造軍艦浪速於英國成君被撰為回 航委員至英國乗之而歸廿二年叙勲八等無何人上等兵曹廿七年叙勲七等賜瑞寶章是歳征清役起時君在第六號水雷艇慨 然決意曰吾欲誓死以報國恩十月航戰地從常備艦隊占領花園口十一月略大連灣攻旅順口屡々有功廿八年二月我軍攻威 海衛敵艦隊拠劉公島以水雷及防材鎖港恃險要而防戰數日不能遽抜同月三日夜第六號水雷艇乗月明迫港口敵知之砲撃 甚烈而君自若冒彈雨而破防材通航路以是翌夜水雷艇隊得侵入港内襲撃敵艦隊轟沈定遠等二艦此夜第六號水雷艇亦在 隊中冒砲撃而迫近鎮遠飛彈如雨注中艇者六十餘彈将射出水雷粉砕敵艦何計嚴氷閉管妨碍發射自是君憤慨不巳更期大 功自慰十二日敵艦隊力屈遂乞降三月和議再起清使李鴻章發天津君時在威海衛港聞之而知戰機既去亦不可為遺憾不自 禁以此月十四日從容自刃艇内歳丗六艇員人化之歸葬横須賀龍本寺君為人沈毅義謄処事綜密克耐艱楚常尚節義至誠奉 公服軍務廿有二年於茲勵精如一日威海之襲撃不奏効因嚴冬結氷所致於君何有然衷心不能自安頁責謝過以死矣可勝歎 惜哉項者故舊捐金樹碑余甞長第六號水雷艇懐舊殊切乃為君叙其事為之銘曰
   至誠奉公 孰若其忠  偉績将奏 孰妬其功 慷概難禁  視天夢ゝ 鬼哭神泣 烈士致躬 大書深刻 其碑穹隆    嗚呼崎氏 英名無窮
            海軍大尉正七位勲六等功五級鈴木貫太郎選」
台石正面:
「建碑及遺族慰問
資金義捐者
 海軍将校以下有志 一千十五名
 通常有志 七名
發起人  海軍大尉鈴木貫太郎 三十七名
永代施餓鬼料 金貮拾圓」
台石裏面:
「終身保險
石工 鈴木仙造 鈴木角造  明治二十九年八月建立」

説明板:
「上崎上等兵曹は青森県上北郡の人旧会津藩士であり万延元年(一八六〇年)岩代國若松城下において出生した 一四歳で海軍に入り水雷術を専攻した  征藩の役西南の役に従軍し明治二十二年上等兵曹に任ぜされ二十七年勲七等に叙せられ瑞宝章を賜った 明治二十七年日清戦争が起こるや第六号水雷艇に乗り戦地に赴く 艇長は鈴木貫太郎(後の大将)であった 明治二十七年二月四日夜わが水雷艇隊は威海衛の夜襲を決行第六号艇もこの中にあって港内に突入はげしい敵弾をうけながら敵艦鎮遠の近迫 まさに水雷を発射して敵艦を粉砕しようとしたところ はからずも厚い氷が発射管を閉鎖し水雷が出なかった 上崎上等兵曹はこの責任を感じ敵降伏後の三月十四日従容として艇内において自刃した ときに三十六歳であった 鈴木艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建てた  昭和三年田浦(田浦交番隣)に移してあったものを昭和四十三年五月十八日ここに移したものである
昭和四十三年五月二十日」