明治憲法起草遺跡記念碑(夏島) |
軍事遺物 |
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現在は、夏島の西端に存在するが、もとは横須賀海軍航空隊の敷地内に建立されていた。 帝国憲法の起草にあたり、伊藤博文ら関係者は金沢の東屋という旅館で作業を行っていた。しかし、行李に入れていた草案が盗難にあったことから、場所を夏島の伊藤博文の別荘に移すことになった。碑はこの別荘の作業部屋の位置に建てられたもの。 夏島は大正時代に海軍航空隊の飛行場をつくるために切り崩され、周囲は埋立てられ陸続きとなった。その結果、この場所は航空隊の敷地内になってしまったという経緯である。 戦後、荒廃していた碑は昭和26年に改修され、再度除幕式が行われたのだが、その後、この場所が日産自動車の敷地となるに及んで移転することになり、昭和50年に現在地に移されたものである。 現在、中央部に御影石の記念碑が建っているが、この石碑は、昭和26年の改修の際に新造されたもので、もとは基礎の石板だけであった。これは飛行機の滑走に影響のないようにとの配慮によるものであった。代わりに別荘の平面図を刻んだ銅板が中央部に埋め込まれていたが、戦後盗難にあい、現存していない。因みに、現存している銅板の碑文も盗難にあったが、こちらは奇跡的に発見され、元の位置に埋め込まれている。 なお、この碑はサイズや石板の数に意味を持たせているので碑文を参照されたい。 所在:夏島(横須賀市) | |
(刻字) ◎当初の碑文: 「金澤之為地負山瀬海波光與嵐影相 映自古称武相第一之名区伊藤春畝 公愛其勝構別墅於夏島将就此而審 議憲法具範之草案屋宇無輪魚之美 柱楹不加彫飾一棟六房総凌風雨耳 明治二十年三月起工六月落成也公 乃徃馬陪従者三人予與金子堅太郎 寓東屋井上毅別居公日来臨東屋従 事調査予専管機秘草案一夕有偸児 入予室奪行李而去翌朝覚之百方捜 索偸児唯取銭而棄行李宇圃中草案 則幸無恙矣公乃命二人移居夏島島 孤懸宇海心非?舟不可渡居此者宛 如謫容距島数百武有烏帽子巌巌以 形名馬時際□夏晨夕討論之暇徃徃 遊泳至巌下其快洵不可名状也頗夏 島既為憲法発祥之処而物換星移今 則為海軍飛行場併烏帽子巌無□斤 影滄桑之変足喫一驚也於是刻文而 誌遺跡以告後人云 大正十五年十月 正二位勲一等伯爵伊東巳代治撰弁書」 「建碑要目 一 碑之位置処残存之古井及古木検定別荘之跡而建之 一 碑之一辺二十二尺二寸一分一厘乃表憲法発布之年月日 一 碑之石数七十六個及表憲法之条数 一 中央之青銅盤表憲法審議室之位置 発起人 伊東巳代治 金子堅太郎 財部彪 加藤寛治 建設委員 宇川 済 刑部 斎 乾 慶蔵 寺島 健 淺井将秀 工事担当者 大庭常雄 増田秀雄」 〇新造された石碑の碑文 (上面) 明治憲法草案起草の跡 □□ (表面) 「SITE OF ORIGINAL DRAFTING OF THE MEIJI CONSTIYUTION IN THE YEAR MEIJI20−A.D.1887」 (裏面) 「PROMOTERS IWATARO UCHIYAMA SOUJI YAMAMOTO MAYO S SILVEY JAMES H.DRAUCHON REBUILT ON THE FEBRUARY 1951 発起人 内山岩太郎 山本惣治 メーヨー エス シルビー ジェームス エイチ ドローン 昭和二十六年二月十一日再建」 〇移転後の横須賀市による説明文 「明治憲法起草遺跡記念碑 この記念碑は、現在地から南方二百メートルの場所に、大正十五年十一月に建立されたものである。 当時、明治憲法草案起草の関係者であり記念碑の建立発起人の一人であった金子堅太郎の言によれば、その場所は、伊藤博文の別荘の草案起草の室にあてられた十二畳半の部屋であったという。 記念碑は、太平洋戦争後荒廃していたが、当時この地で操業していた富士自動車株式会社の手によって、一部原形を変えて改修され昭和二十六年二月再度除幕された。 このたび、元の位置を含む一帯が、日産自動車株式会社に帰属することとなったので、同社と協議のうえ現在地に移設させ、明治憲法草案起草の遺跡を示す唯一の記念碑として永く後世に伝えようとするものである。 ちなみに、この碑の外面は、七十六個の石からなるが、これは明治憲法の七十六箇条を意味し、基石の縦横各二十二尺二寸一分一厘の長さは、憲法発布の明治二十二年二月十一日を示したものである。 昭和五十年四月二十六日 横須賀市」 」 |