圧磨機圧輪記念碑(加賀西公園)

軍事遺物

板橋火薬製造所の創設に関わった澤太郎左衛門の功績を称え、大正11年に建てられた。黒色火薬の製造に使用されたベルギー製の圧磨機が利用されて記念碑になっている。日本の近代工業発展の基礎となった産業遺産の一つ。(板橋区文化財マップより) 碑は澤がベルギーで購入した圧磨(圧輪が4個(2個一組))を組み合わせて使用している。圧輪の大きさは、直径2.6m、厚さ35pである。昭和60年度に板橋区記念文化財に登録、平成8年度に指定文化財に昇格している。
所在:加賀西公園(板橋区)

(刻字)
碑正面:「(篆額)壓磨機壓輪記
是為壓磨機壓輪嘗用製火藥慶應元年九月澤太郎左衛門承コ川幕府旨所購於白耳義也初太郎左衛門留學和蘭備嘗辛苦探究火藥製法既還三年六月奉命相地江?城北瀧之川安機械起工場事未成會維新其機大半收小石川造兵司纔得全明治五年二月太郎左衛門出仕兵部省兼勤造兵司分課創工場於板橋分疏石神井川藉水便輪轉九年八月始業迄三十九年十一月廢有烟藥製造之日晝夜運行實三十有餘年愛其器用念其功績不忍棄焉就其境?樹以爲標?記來?傳之不磨」
台座裏面:「大正十一年三月建」

【読み下し】
「是の圧磨機圧輪は嘗て火薬を製するに用いんが為, 慶応元年九月, 沢太郎左衛門徳川幕府の旨を承けて白耳義より購いしもの也。
初太郎左衛門和蘭に留学し備に辛苦を嘗めて火薬の製法を探究す。 既にして還る。
三年六月、命を奉じて地を江戸城の北,滝之川に相し, 機械を安いて工場を起さんとす。
事未だ成らずして維新に会い其の機の大半は小石川造兵司に収めて纔に全うするを得たり。 明治五年二月, 太郎左衛門兵部省に出仕し, 兼て造兵司に勤む。 課を分ちて工場を板橋に創め, 疎を石神井川に分ち水車を藉りて輪転に便ならしむ。九年八月 業を始めてより三十九年十一月有烟薬の製造を廃する日迄昼夜運行すること実に三十有余年。
其の器用を愛み其の功績を念いて棄つるに忍びず。 就ち其の境内に樹てて以て標と為し,来歴を掲記して之れを不磨に伝う。

昭和初期の絵葉書(中央図書館蔵)

説明板から転載
 この圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造する機械です。その材 質はヨーロッパ産の大理石と判明しています。 慶応元年(1 八六五)に、艦船運用術・砲術・火薬製造などを研究するた め欧州へ留学していた幕臣の澤太郎左衛門(さわ たろうざ えもん)が、幕命をうけてベルギーで購入したものです。澤 はその任にあたり、ベルギーのウエッテレンにあったコーバ ル火薬製造所で作業員として働き、そこで職工長から火薬製 造に必要な炭化釜などの図面を借り受け、圧磨機などについ 教授されたと伝えられています。 また、工場技師長を通じ て、圧磨機をはじめとする火薬製造機械類の発注に成功した ともいわれています。
 慶応三年に開陽丸で帰国した澤は、すでに小栗上野介忠順 などにより、 北区滝野川で企画されていた幕府の大砲製造所 ・火薬製造所の建設に加わりますが、 明治維新の中で工事は 中断となり、澤も箱館へと脱出します。 この時に輸入した火 薬製造機械の一部は滝野川から運び出され、軍艦へと積み込 まれていますが、この圧磨機圧輪自体の動向については不詳 です。のちに澤は新政府軍へと投降しますが、釈放された直 後の明治五年(一八七二)には兵部省へ出仕し、板橋におけ る火薬製造所建設にも中心的な役割を果たしました。
 明治四年七月、兵部省は板橋金沢邸 (旧加賀藩江戸下屋 敷平尾邸) の一部を火薬製造所の用地とするために政府に引 き渡しを求めました。その理由は、「彼邸水車モ有之、 造兵 ノ為便利不少候」と申入れ書にあるように、 石神井川に敷設 した水車の動力が圧磨機を動かす上で重要な条件となってい たためでした。同年十二月に当邸の一部は造兵司属地となり、 火薬製造所の建設が始まりました。 なお、当時の兵部省にお ける造兵部門の長にあたる造兵司正には、加賀藩士で洋学 (兵学・科学)に通じていた佐野鼎(さの かなえ)が就任 しており、このことが製造所用地の選択にも影響を与えた可 能性があります。
 明治九年八月に完成した火薬製造所は、陸軍の「砲兵本廠 板橋属廠」として操業を開始し、この圧磨機圧輪を使って黒 色火薬が製造されました。 圧磨機による火薬製造工程は、 水 を注ぎながら、圧輪を回し、硫黄・硝石・木炭を細砕・混和 し、篩(ふるい)にかけて粒子をそろえ、乾燥させたのち製 品化するというものでした。 なお、圧磨機を回転させる動力 には、石神井川からの導水路による縦軸水車(簡易フランシ ス水車)の動力が利用されています。なお、その設置場所は、 現在の加賀二丁目15番街区あたりと考えられます。 当工廠は、 その後、「板橋火薬製造所」と改称され、最終的な呼称は、 東京第二陸軍造兵廠・板橋製造所(通称二造)となりました。
 明治二十七年には、当所で無煙火薬の製造が開始され、施 設・設備も拡充していきますが、その一方で、取扱いが難 しく、爆発事故が続いた黒色火薬については製造が減少し、 同三十九年に製造中止となると、圧磨機圧輪も使用されな くなりました。
 大正十一年(一九二二)三月、国内外の軍縮が進む中で、 陸軍は使用されなくなった圧磨機圧輪を転用し、そこに澤 の威徳を称え、圧磨機圧輪の来歴などについて刻み、 記念 碑としました。
 戦後、当記念碑は、通産省計量研究所敷地内にありまし たが、同研究所の移転にともなって区立加賀西公園に移設 されました。昭和六十年(一九八五)に産業考古学会推薦 の産業遺産に認定され、翌年には区登録記念物(平成七年 度からは指定記念物)となりました。
平成二十三年(二〇一一)十月  板橋区教育委員会

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