故陸軍騎兵一等卒山田福太郎君碑(天養院) |
軍事遺物 |
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日清戦争に従軍し、戦死した山田福太郎君の事績を後世に伝えるために明治34年9月に建立された。 碑前面には、澁谷大佐の篆額「荊舒是懲」の下に顕彰の碑文が刻まれている。 なお、篆額の「荊舒是懲」は、「ケイジョこれこらす」と読み、「えびすどもをこらすこと:荊と舒はともに蛮夷」の意味。 碑高157cm、幅130cm、厚さ14cm、台石30cm、溶岩基壇45cm 所在:天養院(三浦市) (刻字) 碑正面: 「故陸軍騎兵一等卒山田福太郎君碑 君神奈川縣三浦郡初聲邑和田人父稱忠左衛門 母米本氏君爲人深沈有節概徴爲兵士編入近衛 騎兵大隊期満歸家征清之役起召集属余赴干遼 東既而轉至臺湾會土匪蜂起清兵陰助之勢頗猖 獗君屡戦有功巳而罹疾在大甲病院時澁谷中佐 所率大隊在大蒲林為敵所圍君聞急突圍入我隊 一日以師団長之令将背進敵別軍来攻君中銃丸 而斃實明治廿八年九月七日也年二十七配米本 氏生三男長夭次皆幼配亦病歿實在君出征前君 得訃不顧死以報國之志益堅義勇奉公為臣死於 忠者君其得之後師團之南進也就嘉義塋域而葬 馬從兄米本高二郎欲碑其事跡以傳後毘来乞余 文余在同袍義不可辞乃為叙其梗概以勒之 陸軍騎兵大尉正七位勲六等功五級牧野正臣撰并書 陸軍騎兵大佐從五位勲五等功四級澁谷在明篆額 碑裏面: 「我子孫ニ示ス父ノ遺髪及爪ハ此大塔ニ 納メ屍ハ臺湾嘉義縣大蒲林北門 約五十米突ノ地大樹ノ下ニ埋葬ス云云 明治廾八年九月七日 福壽院大譽忠勇義道居士 明治廿八年三月一日 壽光院定譽善室貞操大姉 明治卅四年九月 山田忠重建之 石工 鈴木角造」 |