海軍水雷学校跡の碑 |
軍事遺物 |
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海軍水雷学校は、明治12年に水雷練習所が横須賀に設置されたのが前身である。幾多の変遷を経て、防御水雷(機雷)攻撃水雷(魚雷)、無線電信の教育を行ってきたが、明治40年、水雷術と通信術の術科学校として海軍水雷学校が開校した。その後、昭和5年に通信部門を分離し、新設の海軍通信学校に移管、昭和16年には機雷や水中測的関係を分離し新設の海軍機雷学校(長瀬)に移管した。その後は、魚雷に特化するとともに、特攻用モーターボート「震洋」の初期の教育などにも携わり、昭和20年8月15日終戦とともに閉校した。 この碑は、海軍水雷学校跡碑建設委員会(委員長有田雄三他873名)により、昭和58年5月8日に建立された。碑には、「海軍水雷学校跡」の題字とともに、水雷学校の象徴である魚雷と機雷を描いたレリーフが取付けられている。 なお、水雷学校は、現在の関東自動車(移転中)と海上自衛隊第二術科学校のあたりが敷地であり、この碑は、関東自動車前の国道沿いに建立されたが、関東自動車の移転により、平成21年に海上自衛隊第二術科学校内に移設された。 (刻字) 碑前面: 「海軍水雷学校跡」 碑背面: 「沿革 明治三年十一月四日 海軍兵学寮に水雷火設置 明治七年九月二十日 海軍兵学寮にて水雷術伝習開始 明治十二年八月二十三日 水雷術練習所横須賀に開所 明治十六年二月六日 水雷術練習所を廃止し水雷局を長浦に設置 明治十九年一月二十九日 水雷局廃止水雷術練習艦設置(迅鯨) 明治二十年十一月十六日 水雷術練習工概則制定(水雷術練習生の起源) 明治二十二年十二月二十三日 水雷術練習艦で下士官、兵に掌水雷兵教育開始 明治二十六年十二月一日 水雷練習艦を水雷練習所に改める(迅鯨) 明治三十九年十二月一日 同右を長浦の陸上に移転 明治四十年四月二十日 海軍水雷学校条例制定 明治四十年四月二十二日 海軍水雷学校田浦に開校 電気器具、防御水雷、 攻撃水雷、通信術の四科目伝習開始 昭和五年六月一日 海軍通信学校分離独立 昭和九年五月二十三日 航空魚雷練習生制度設置 昭和十年七月 航空兵器術練習生のなかに魚雷爆撃専修の練習生制度設置 昭和十五年六月二十日 雷撃員制度設置雷撃練習生教育開始 昭和十六年四月一日 海軍機雷学校分離独立 昭和一九年三月一五日 海軍対潜学校と改称 昭和二十年七月十五日 同右を廃止海軍水雷学校久里浜分校となる 昭和十八年六月十七日 海軍水雷学校魚雷艇訓練規則制定 昭和十九年四月一日 海軍水雷学校川棚魚雷艇訓練所開始、魚雷艇、特攻兵器、 震洋艇の教育訓練実施 昭和二十年八月十五日 終戦閉校 昭和五十八年五月八日 海軍水雷学校跡碑建設委員会 委員長 有田雄三 他八七三名を以って建立 兼平芳雄謹書」 |
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術科学校に移設前 |