豫科練誕生之地の碑(貝山緑地)

軍事遺物
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予科練発祥の地である横須賀海軍航空隊が所在した追浜の地に昭和56年に建立された。
碑には予科練習生発足時の分隊長であった浮田信家氏によって「豫科練誕生之地」と刻まれている。第一期生より第十期生までの生存者によって建立された。
碑の横には、説明碑があり、由来が刻まれている。
碑高180cm、幅77cm、厚さ24.5cm、台石50cm。
説明碑高106.5cm、幅131.5cm、厚さ9.5cm、台石21cm。
所在:追浜(横須賀市)
(刻字)
碑正面:「豫科練誕生之地 浮田信家謹書」
裏面:「昭和五十六年六月一日建之 豫科練第一期生より第十期生までの生存者一同」

説明碑正面:
「光る海 明るい太陽の下 大空をこよなく愛し 国を想うひとすじの少年たちが撥溂としてここに溢れていた
昭和五年六月一日 横須賀海軍航空隊内の一隅に 海軍少年飛行兵の教育機関として 横須賀海軍航空隊豫科練習部 が誕生し やがて豫科練 として愛称されるようになった
志願者の年齢は十五歳から十七歳 修業年限は三ヵ年 俊秀なる大空の勇士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ってこの制度は創設され全国五千九百余名の志願者から厳選された七十九名が第一期生としてここに入隊した 土浦 三重 鹿児島など 後には十九を数えるに至った豫科練航空隊の萌芽である
時局の進展につれて 海に臨み山を負うこの地は狭小となって昭和十四年三月霞ヶ浦湖畔に移り 翌年独立して 土浦海軍航空隊となった 豫科練の歴史十五年三ヶ月のうち 実に八年九ヶ月は ここ追浜の地で教育活動が行われたのである そこで目指したものは 優れた搭乗員としての人間形成と基礎教育であった 少年たちは鉄石の訓練をものともせず 乾いた砂が水を吸いこむようにあらゆるものを純粋に受け入れて自らを育てていった
豫科練を巣立った若人たちは 飛行練習生教程 実用機錬成教育と研鑚を重ねてたくましい若鷲と育ち 太平洋戦争に於ては 名実共に我が航空戦力の中核となり 水陸の基地から 航空母艦から 戦艦 巡洋艦或は潜水艦から飛び立ち 相携えて無敵の空威を發揮したが 戦局利あらず 敵の我が本土に迫るや特別攻撃隊員となり 名をも命をも惜しまず一機一艦必殺の体当たりを決行し 何のためらいもなく 無限の未来を秘めた蕾の花の生涯を祖国防衛の為に捧げてくれたのである
顧れば 少年たちは戦いを求めてこの地に集まったのではなく 制空護国の一途の念いからであった 豫科練誕生以来既に五十一星霜 若人たちの至純の赤心が 祖国の安寧と世界平和の礎となることを祈念して旧学び舎の丘の上にこの碑を建つ
昭和五十六年六月一日 此の地に学んだ生存者一同
撰文 倉町秋次  書 鈴木忠正」
裏面:
「記念碑建立委員会
委員長 一期生 大浦 勇
委員 二期生 安藤民雄 仝三期生 小林熊一 仝四期生 南崎成夫 仝五期生 大隅梅太郎
仝六期生 塚本一正 仝七期生 泉沢 勝 仝八期生 柳下郁郎 仝九期生 田中茂雄 仝十期生 三瓶志郎」

なお、入口に簡単な案内看板が建てられている。
「予科練とは海軍飛行予科練習生の略称にして海軍少年飛行兵とも別称す。 昭和五年六月一日第一期生入隊以来昭和十四年二月第十期霞ヶ浦に移るまで、全国より選ばれたる少年此の地に集い学び此の地を巣立ちて日夜猛訓練の中に技倆を磨き、 やがて日支事変勃発するや中国の空に第二次世界大戦においては南海の空にと唯々国の為同胞の為にと信じて各地に勇戦敢斗赫々たる武勲を残してその大多数が大空に散華す。 我々不思議に命永らえたる生存者一同今は亡き同窓の英霊を偲びて、思い出の此の地追浜神社跡に建碑す。即ち予科練誕生之碑也
昭和五十六年六月一日  予科練一期生より十期生まで生存者一同」