海軍機雷学校海軍対潜学校碑(長瀬) |
軍事遺物 |
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明治40年に開校した海軍水雷学校からは二つの術科学校が分離した。昭和5年に通信術を独立させた海軍通信学校が久里浜に開校した。その後、水雷学校は魚雷関係と機雷関係の二つの教育を行ってきたが、昭和16年、機雷関係に属する防備部門を分離させた海軍機雷学校を久里浜長瀬に開校した。機雷学校は昭和19年3月に海軍対潜学校と改称したが、機雷・爆雷・掃海・水中測的の教育を行った。 しかし、終戦一ヶ月前の昭和20年7月15日本土決戦のため廃止され、海軍水雷学校久里浜分校となり終戦を迎えた。学校の跡地は、現在、横須賀刑務所、久里浜少年院等になっている。また、野比と油壷に測的関係の実習所(分教場)があった。 碑の脇には副碑があり建立の経緯が刻まれている。 碑高88cm、幅155cm、厚さ40cm、台石30cm、基壇49cm。 所在:横須賀市長瀬 (刻字) 碑正面:「海軍機雷学校 海軍対潜学校跡」 碑裏面: 「碑の由来 ここ横須賀市長瀬三丁目一帯には、次の海軍の学校がありました。 海軍機雷学校(昭和16年4月1日創設)海軍対潜学校(昭和19年3月15日改称) この学校では、機雷術(機雷・掃海・防潜網・爆雷など)、水中測的術(探信儀・聴音機・磁気探知機など)の教育が行われました。 終業して任地におもむいた若人は約2万7千人、そのうち約8千人の尊い生命が失われました。 この石碑はこのことを後世にのこすために建てたものです。 平成5年(1993年)4月1日 有志一同」 *副碑も同文 |