平和之碑(春日神社) |
軍事遺物 |
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この碑は、もともと昭和12年7月25日の火砲奉献の際に建立されたものが、戦後の昭和35年に平和の碑として再建されたものである。 碑本体の左手には「陸軍大将 林銑十郎書 昭和三十五年十一月再建 郷友会 三春分会」と刻まれている。林銑十郎の部分は、当初の刻字が残されている部分である。因みに林銑十郎大将は建立の昭和12年時点では総理大臣であった。 碑の正面には2枚のアルミ板が取り付けられ、右手は五箇条の御誓文の一文が、左手には春日神社の由緒が刻まれているが、これも当初のものと推測している。 裏面には、再建時の寄附者が列記されたアルミ板が取り付けられている。推測だが、このアルミ板の下に当時の刻字が隠されていると考えている。 春日神社は、もともと猿島全島を神域とした神社で、現在地にあった拝殿から遥拝していた。しかし、陸軍の猿島砲台建設のための買収により、明治17年4月山崎に遷座、明治41年には現在地の本殿に合祀された。 碑高133cm、幅236.5cm、厚さ15cm、台石25cm 所在:春日神社(横須賀市) |
(刻字) ・碑正面 「奉献」 「陸軍大将 林銑十郎書 昭和三十五年十一月再建 郷友会 三春分会」 ・右アルミ板: 「廣く會議を興し 萬機公論に決す 社団法人日本郷友連盟横須賀郷友會 會長 外崎柾之助書」 ・左アルミ板: 「春日神社由緒 本社の主祭神は奈良の春日神社大坂の枚岡神社と同じく歴代 祭祀を司られた中臣連藤原氏の祖神といわれる天児屋根命で 奈良春日神社より分霊勧請したと伝えられる 祭神天児屋根命は天照大神が天ノ岩戸にかくれ給いし時大王 命と共に五百箇眞賢木に鏡玉幣を取り付け大祝詞を奏し給い しといい天孫降臨に際しては諸神と共に扈従し永く皇神を守 護し奉ったという 本社の勧請は詳かでないが古くは猿島に鎮座ましまし猿島を 十嶋と呼んでいたので十嶋大明神とて公郷一円の鎮守として 里人の崇敬おくあたわざる社であったが十八世紀初めより春 日大明神と呼ばれた 猿島全島を境内としここに神鎮まります本殿を遥か鴎飛ぶ海 原をへだて現在地の拝殿から遥拝するという世に稀な社であ った海岸より艫の音勇しく関係者一同島に渡り祭典を執行し 全島一木一草と雖ども神聖なものとされていたのであった 然るに里人の信仰益々深く現在地に安永三年別殿を造営しこ れに祭神を奉斎し更に享和元年拝殿を再建して氏子の朝夕参 拝の便をはかったのであった 弘化四年江戸湾防備の必要上猿島に台場を建設にあたり幕府 は同所本社に三百疋の献花あり川越藩も三百疋を備えた 明治六年十二月村社に列格社殿は正面二間奥行三間境内地四 千六百三十六坪と届出されたこの神聖な神域猿島も漸く時代 の推移と共に軍用地となり社殿も移転の止むなきに至り明治 十七年四月廿五日山崎に遷座したのであるが明治四十一年神 奈川縣指令乙第四二〇五号に基づき現在地の本殿に合祀され たのであるこの社殿は従来とは向を変え猿島に正面して建て られたものである 明治四十二年八月公郷町内鎮座の十五社十柱を本社に合併し 公郷一円の氏神として祈請崇拝厚かったのであるが大正十二 年九月一日偶々関東をおそった大震災にあい社殿は倒潰の厄 を被ったのであった里人恐懼し翌十三年七月直ちに仮殿を建 設しこれに遷座し奉ったそれ以来氏子一同本建築を企図し現 在の境内八百五十坪に拡め本殿拝殿三十五坪春日造の社殿を 造営遷宮しここに七月三十日を期して例祭とし神霊を祭祀し 神人帰一の信仰に敬神崇祖の美風を保持しつつ今日に至って いるのである 高橋恭一記」 ・碑裏面アルミ板 「平和之碑再建寄附者芳名 金一万円也 小泉純也殿〜(全61名) 再建委員 金一万円也 福岡秋松殿〜(全12名) 郷友会員 行方静殿〜(全16名) 工事施工者 坂爪豊造」 |
建立時の写真。火砲は12pカノンだと思う |