共有農地処理完了記念碑(常光寺)

軍事遺物
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城ケ島唯一の寺院である常光寺に建立されている。
城ケ島砲台の建設により買収された民有農地の現在までの経緯が記された貴重な石碑。 戦前は陸軍、戦後は縣という権力に翻弄された農民の苦労が偲ばれる。
外柵をめぐらせた中央に台座を設けて、自然石の碑石を載せ、碑石正面を平に仕上げ、碑文を刻んだ銅版を貼り付けている。 題字は記されていない。 碑文の内容から「供用農地処理完了記念碑」とした。
平成26年現在、永代供養墓建設のために、建設当初の位置の向かい側に移設され、台座も外され碑本体のみが小さな台石の上に鎮座している。
碑高83cm、幅170cm、厚さ28cm、台石22cm
所在:常光寺(三浦市)
(刻字)
碑正面:
「大正十三年秋字一番森より安房崎にかけて陸軍要塞砲台構築のこと決まり民有農地の買上げ始まる。
昭和四年二十四糎加農砲二座四門の築城完了す。
昭和十二年七月満盧溝橋事件に端を発したる支那事変は太東亜戰争に発展し、昭和二十年八月十五日遂に米、英、露、支その他連合国の軍門に下る。
昭和二十一年二月旧地主は食糧事情困難なるままに軍用地を農地として開放することを求め一時使用を許されて後は営々開墾に力むると共に拂下げ運動を開始す。
一方縣は軍用地全部を縣立公園として開発することを決し遊歩道路の築造等を為して譲らずそれ以後その掌に当たる者の言語に絶する努力の結果昭和二十七年十一月芝地及び山林の一部を縣に割譲して自作農創設特別措置法により開放農地として芝地、山森、畑、十二町六段三畝二十四歩を旧地主に拂下げ完了す。
昭和三十二年縣は公園整備の為再び民有に歸したる大部分の農地の買収を求む地主は本島将来の趨勢を察し是に協力すること〃なる
昭和三十五年四月縣は七億の費を投じて城ケ島大橋を完成すると共に公園整備を行う。島の開発是より大いに進む。
昭和三十七年五月、共有農地の處理完了するに当り祖先傅来幾百年開放農地として管理せられてより十七年、我々の糧道の元たる農地として幕を閉ずるに当り関係諸士の労を謝する為其の碑を建立して永く記念とするものなり。
昭和三十七年十一月 城ケ島共有農地管理委員會」
*碑文中、昭和4年24センチ加農砲2座4門という記述があるが、正しくは昭和2年の竣工、25センチ加農砲である。

碑裏面:
「開拓組合役員 
 加藤嘉平太 池田次郎左エ門 青木勘太郎 加藤庄次 石橋要吉 金子鶴吉 加藤春次 脇坂了教
常光寺十二世 了雄書」