西田明則君之碑 |
軍事遺物 |
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東京湾の海堡建設に一生を捧げた陸軍西田工兵大尉(後少佐)の偉業を称えるために、大正11年8月、衣笠公園に建立された。 大きな塔状の碑であり、塔身に銅板切り文字で「西田明則君之碑」と書かれ、台座に碑文の銅板が嵌め込まれている。 現在、碑の横に説明板が併設され、碑文の現代語約が記載されている。 所在:衣笠山公園(横須賀市) 碑文(現代語訳): 「東京湾に三つの海堡を山のようにそびえ立たせ、帝都の入口の砦とし、海上防衛の備えとする。明治十二年、参謀本部内に海岸防御取調委員を置いた。間もなく、陸軍工兵少佐西田君は常任委員として、もっぱら従事することとなった。 東京湾海堡の設計・施工の多くは君が苦労し、心をつくして行ったものである。それは、中国の禹の治水に勝るとも劣らないものであった。 ことに第三海堡の位置は水深が二十ヒロ余りもあり、潮流はこれまでに例のない早さであった。人々は大いにこれを危ぶんだ。しかしながら、君はあらゆる方面に説いて廻り、その結果、ついに今日完成するに至ったのである。これはあらかじめ成功する成算がなけらば成しとげられなかったものである。君の功績は偉大と言うべきである。 君は名を明則と言い、山口県出身で、見識と度量があり、数学に精通していた。明治十九年に陸軍技師となり一生その職にあった。明治三十九年五月二十一日、君は八十歳にして竣工を見ることなく逝去され、横須賀聖徳寺の墓地に葬られた。今、この三月、志を同じくするものがあい計らい、衣笠山公園に碑を建て、後世に伝えることとした。 このたび、各皇族より御下賜金を戴いた。大いに名誉なことである。私は君と交誼があったので、この碑文を作成した。君の遺言は骨を三つの海堡を一目で見える所に埋めて、霊魂が長く三つの海堡を護ることを望むものであった。 あゝ、君は死してのちもなお、心を尽くし、国のためにつとめるのか。 大正十一年八月 元帥陸軍大将子爵 上原勇作撰」 なお、墓は聖徳寺新墓の西田家の墓地にある。 西田明則墓碑 碑高(現況)136cm、幅73cm、厚さ14cm。 (刻字) 碑正面:「正五位勲三等西田明則之墓」 碑裏面:「明治三十九年五月二十一日卒」 |
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