砲術教育はもともと砲術練習艦を利用して行われていたが、教育を拡充するため、明治26年海軍砲術練習所が開設された。日露戦争後、海軍は制度上の大改革を行い、砲術練習所は海軍砲術学校となり、楠が浦の陸上校舎に移転した。その後、艦砲だけでなく陸戦教育も重要な課題となり、太平洋戦争開戦前の昭和16年に陸戦隊及び陸上砲術の教育機関として館山海軍砲術学校が分離新設され、元の海軍砲術学校は横須賀海軍砲術学校と改称された。太平洋戦争突入後、予備生徒の増員に対応するために昭和19年4月15日に「長井分校」が新設された。また、昭和20年4月25日には練習生教育のため京都に粟田分校が開設された。
昭和20年7月には、本土決戦に備えた教育緊急措置により教育中止となり、予備生徒、予備学生の教育のみ継続したという。これより先、昭和19年7月には各術科学校は、特設警備隊に編成されたが、横須賀海軍砲術学校は横須賀第一警備隊として終戦を迎えた。
長井分校は戦後、4棟の校舎の内、2棟が長井小学校、1棟が長井中学校として利用された。現在は、校舎は鉄筋に建て替えられ、その他の施設も残っていないようである。なお、北側の市営住宅の裏の崖には警備隊としてのであろう作戦室を含む地下壕が構築されていた。
台地上に様々な施設が立ち並んで
いた。
昭和22年、長井国民学校の校舎を
取壊し、砲術学校を利用して長井
小学校が開校した。同時に北には
長井中学校が開校した。
現在は、砲術学校の施設は残って
いないようだ。なお、最新情報では、
北側の畑も宅地となっている。
市営住宅裏の地下壕入口。鉄扉が
付いている。
同左。こちらは危険防止のため、
コンクリートで塗込められている。
中学校脇の畑地に残る内部がT字型
の防空壕。