空襲による被害の軽減と防護強化を目的とし、昭和19年に出された横須賀海軍工廠第一次疎開計画、翌年の第二次疎開計画を受けて、工廠内各部、各工場は廠内外に疎開先を求めた。
特に造兵部は逗子町の沼間や久木の谷戸を疎開先とし、急ピッチで地下工場を構築していった。
こちらの壕は、当時の逗子町(昭和18年4月1日から昭和25年7月まで横須賀市に編入)久木に設けられていた火工工場の地下工場と推測している。しかし、久木には光学実験部の疎開工場も造られていたため、その可能性もある。また久木寄宿舎の退避壕でもあったろう。
整ったラダー状であり、大規模な東壕と小規模の西壕が接続されている構造である。西壕には大中小の大きさが異なる3つの部屋が設けられているが、東壕には部屋は無い。東と西で使われ方が異なることが推測される。
内部はきれいに整形されており、比較的乾燥している。しかし、あちこちズリによって半分ほど埋まっており、特に奥部はほとんど埋まった状態である。
なお、中腹に開口している抜穴が両翼に設けられているのが珍しい。
B十字路部分
C両端に溝が切られている。先にはスリが。
Dこの辺りはゴミ等で埋め戻されている
E所処でズリが残されている
Fきれいに整形されている
G抜穴階段、開口部はブロックで閉塞