(光学実験部)
昭和10年8月に開設された。前身は造兵部の計器工場〜光学工場。測距儀、潜望鏡、双眼鏡など各種光学兵器の試作、実験、造修を行った。
大戦末期には、空襲に備え、逗子町久木を疎開先とし、仮設工場及び地下工場が建設された。
(航海実験部)
昭和11年7月に開設された。航海兵器(コンパス、測器、時計、気象計器など)の試作、実験、造修を行った。
前身は造兵部の計器工場であり、光学兵器も扱っていたが、昭和3年光学工場として独立した。
空襲に備え裏山の地下工場のほか、船越国民学校の裏山にも地下工場が造られた。
(電池実験部)
昭和11年7月に開設された。潜水艦用の蓄電池の造修、研究実験を行った。
前身は大正6年に造兵部に設置された二次電池工場。前面海には潜水艦2隻が横づけできる突堤が大正14年に造られた。
大戦末期には空襲に備え、裏山に退避壕及び地下工場を設けたが、更に部外の沼間「ポンプ場」東谷戸に、製造・実験施設の一部を疎開した。
米軍撮影空中写真(昭和22年撮影)
現在。海自施設を中心に建物が立ち並ぶ。
栄光学園時代の様子(旧施設をそのまま利用)
(戦後〜現在)
戦後は、米軍に接収されたが、この3実験部の跡地には、デッカー大佐の要請により昭和22年5月にカトリック系中学校として栄光学園が開校した。
校舎は3実験部の施設を改修して使用したが、終戦時の破壊や略奪で見るも無残な状態であったそうだ。
その後、昭和30年頃から海上自衛隊用地とするための校地買収の打診があり、防衛庁との交渉が開始された。交渉は難航を極めたが、結果、昭和39年に栄光学園は大船に移転した。
以降、海上自衛隊の自衛艦隊司令部、護衛艦隊司令部など海上自衛隊の実戦部隊の中枢となっている。
当時の施設としては、光学実験部の光学工場と電池実験部の兵装工場が残されていたが。残念ながら2012年1月兵装工場は破却された。日本戦跡協会様より指摘があり熱試験場も残っているそうである。
更に、令和2年(2020年)10月、隣接地に建設されていた「海上作戦センター」の運用が開始された。これまで分散していた自衛艦隊司令部や護衛艦隊司令部などの6つの司令部を集約したもので、部隊間の意思疎通や効率的な作戦指揮が可能となった。
旧光学実験部光学工場
旧光学工場熱試験場。日本戦跡協会様提供
旧電池実験部兵装工場。残念ながら2012年1月破却された。
現在の自衛隊施設
海上作戦センターの雄姿