横須賀海軍工廠では、日中戦争以降、戦争の拡大につれ、多くの工員を必要とした。そのため、各地から多くの徴用工、挺身隊員、勤労学徒を動員したが、彼らを収容するために多くの工員宿舎が建てられた。すなわち横須賀市では池上や金谷など、逗子町(昭和18年4月1日横須賀市と合併)では沼間や久木の工員宿舎である。
このうち沼間第四寄宿舎は、第二寄宿舎と共に昭和19年3月に建設されたもので、主に東北地方から動員された女子勤労学徒や女子挺身隊員が収容された。
宿舎は全7寮あり、木造2階建て収容人員約1,800人。第一・二寮には関東各都県の女子挺身隊員、第三・四寮には石巻実女、石巻高女、登米高女、角田高女、第五寮には宮城県第一高女、第二高女、第三高女、第六寮には棚倉高女、浪江高女、第七寮には福島高女が収容されたという。(逗子市史より。なお、宮城県第二高女の記録「断章きらめく」によると、入寮の内訳は異なり、また白石高女も動員されていたと記録されている)
宿舎内部は、記録によれば、入口に流しがあり、廊下の左右に12畳ほどの部屋が8部屋づつ計16室並び突き当りがトイレ。2階にも16室、計32室あったようです。
当時の様子は宮城県第一高女の学徒勤労動員の記録である「海鳴りの響きは遠く」や第二高女の「断章きらめく」、石巻高女の「娘たちのネービー・ブルー」など幾つか記録、日記集が出版されおり、空腹に悩まされ空襲に怯えながらお国のためという一心で勤労に打ちこんだ学徒勤労動員の実態を窺い知ることができる。
「海鳴りの響きは遠く」によると彼女達は横須賀海軍工廠造兵部火工工場久木分工場(作業場)に動員されていたこと、寄宿舎の防空壕を掘るのを手伝い昭和19年末には完成したこと、昭和20年6月には空襲に備えて第四寮と烹炊所の半分を壊したことなどがわかる。(昭和21年の航空写真を見ると第四寮が無く、烹炊所も小さくなっているのがわかる)
現在は、寄宿舎のあった場所は、主に県営桜山アパートとなっており、ここに寄宿舎があったことを伺わせるものは何も残っていない。西側の崖に掘られていた防空壕も全て塞がれている。
昭和63年度国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省
米軍撮影の空中写真(昭和21年)
寄宿舎の正門付近。どこにでもある住宅街である。
第一・二寮跡。
第三・四・五寮跡。
第六・七寮跡。
防空壕。コンクリートで塞がれている。