富津元洲堡塁砲台

<沿革>富津市
・明治15年1月:起工
・明治17年6月:竣工
・明治25年3月:28糎榴弾砲6門、12糎加農砲4門据付
・大正3年12月:備砲撤去
・大正4年:除籍
・二十八糎榴弾砲六門、十二糎加農砲四門

<構造>
房総半島で最初に築かれた砲台である。
五稜郭のように周囲に堀を巡らせた5角形の堡塁で、外掘りの水は東京湾から海水を導いている。
堡塁へは背後に設けられた橋から進入する。
28糎榴弾砲の砲座は湾口部に向かって弧を描いてならんでいる。遺構から判断して、6角形の砲座が榴弾砲座であり、左から砲座1基に1門づつ3門、次の砲座には2門、そして次の砲座に1門の計6門であり、変則的な配置である。 砲座は背後の塁道から約180p上がった部分に幅約13m、奥行約10mの六角形で、胸墻は3m程度の石積みの上に50p程度の土堤が築かれている。弾室はない。砲座間の横墻下に砲側弾薬庫が3カ所築かれている。
観測所は砲座の左右にあったとされているが、遺構では左翼しか残っていない。また、保塁の南西に分地観測所があった。 左翼観測所の左手にも掩蔽部がある。
12糎カノン4門の砲座ははっきりしないが、堡塁外や堡塁内の底部は考えにくく、胸墻が低い四角形の第1砲座と最左端の平場ではないかと推測する。

<現状>
除籍後、陸軍技術本部の富津射場として利用されたため、若干改変されたがほぼ堡塁の原形をとどめているものと思われる。 砲座、横檣、胸檣、掩蔽部、塁道などの遺構もほぼ原型を保っている。
砲側弾薬庫の入口は危険防止のためか埋められている。左の掩蔽壕の表面はモルタルが剥がれフランドル積の煉瓦壁が現れている。また、壕上には他では見られない形状の通気口が残っている。
砲座への石段は、当時は全てにあったと思われるが、現在は第5砲座にのみ残っている。
左翼観測所は煉瓦造の付属室を含めて残っているが、観測室の部分を潰してコンクリート製の平場が造られている。射場時代にはこの上に観測所が設けられており、その際に埋められたものと推測される。
堡塁底部から砲座後部の塁道へ上る2方向の坂路は当時からあったが、右手の塁道から更に前面土塁上部に上る坂は砲座を一部壊しており、射場時代に造られたものと推測される。
前面土塁上の両端に半円の構造物がある。小隊長壕のようであるが不明である。
前面右手の橋は、戦後に架けられたもので、その際左手にも橋が架けられ、一時期橋が3カ所存在した。

堡塁外観。外堀の幅は40mほどあり、
中世城郭の佇まいである。

堡塁入口。土塁を堀割って通路が設け
られている

内部。正面が砲側弾薬庫、その上に塁
道、その上が横墻、左手が第4砲座

第4砲座と第5砲座間横墻と塁道

展望台からの俯瞰。右翼1.2.3砲座。

同左。左翼第4.5.6砲座

第6砲座に残る石段

第6砲座胸墻

第2砲座

左翼観測所及び付属室

付属室内部

上部観測室。コンクリートで覆われている

左図は左翼観測所の実測平面図である。
砲台竣工後の明治30年代中ごろに建設された。上部外形形状はコンクリートで覆われているため推測である。地下付属室は、2m×4mの矩形で室内高は1.7mと小ぶりである。胸壁は煉瓦造であるが穹窿部はコンクリートであり、日清戦争後の建設を示している。

観測所の前面に円形のテーブル状構造物がある。(写真)
側面に所々剥がれているが「□年海外移住百年□」と読める。明治百年海外移住百年記念と推測されるため、砲台関係施設ではなく戦後に造られたものである。

左端の掩蔽壕。フランドル積

同左の通気口

前面土塁の両端にある半円構造物。

分地観測所

分地観測所。躯体はレンガ造。

同左上面。中央凹部には測遠機台が残る

付属室内。左翼観測所と同形状。

 

分地観測所とは、いわゆる補助観測所のことで、主観測所と2点から観測することで正確な観測ができる。構造は主観測所とほぼ同様である。

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