<構造・現状>
関東大震災後の東京湾要塞復旧工事の一環で新設された砲台。
ワシントン海軍軍縮条約により廃艦となった戦艦安芸の砲塔を改造して設置した。
最大射程は約24km。これは房総半島の洲崎まで届く距離であり、同じ砲塔砲台である洲崎第一砲台とともに、東京湾口防御の第一線を担っていた。因みに、戦艦安芸は、大正13年9月6日、標的艦として戦艦長門、陸奥の砲撃により沈没している。
城ヶ島の東半分が砲台用地で、砲塔は東西に約80m隔てて2基(4門)が設置され、空から秘匿するため屋根が掛けられていた。また、周辺には偽民家が建てられるなどの擬装が施されていた。
砲塔は人力操作で、地下砲側庫は砲塔から離れた地下に設けられ隧道で砲塔の下まで通じていた。
観測体制は充実しており、砲側観測所が東南の崖上に、主観測所は高山、分観測所は高磯に設けられ、電纜で通じていた。いずれも八八式海岸射撃具が設置されていた。また、砲台下の磯には潮位測定井戸が設置されていた。電灯所は砲塔の西に、付属施設である発電所や砲具庫、装薬調合所、炸薬装実所などは、現在の公園下の駐車場の辺りにあった。
戦後、砲塔は爆破され、二つの大穴が残されていたが、昭和25年に城ヶ島公園建設が決定、昭和33年に開園以来現在に至っている。
遺構は、公園建設工事と城ヶ島大橋の道路工事により撤去されほとんど残っていないが、地下施設と砲側観測所は現存し、往時を偲ばせている。
なお、終戦まぎわに海軍が高角砲台を建設していたが、砲座が完成し砲を据付ける直前に終戦となったという証言がある。
◎大戦中に設けられた野砲陣地の詳細についてはこちら
地下施設はコンクリート造。砲側弾薬庫は3室設けられ、砲塔まで50mほど
の通路で結ばれ、砲塔脇の揚薬井から弾薬を供給していた。
通路上の点
は通気口で3か所あった。通路脇に4か所の機械置場?が設けられている。
また、断面図のように砲塔の直下ではなく背後から弾薬を供給した。
砲塔跡。駐車場内の円形花壇の場所。
砲側弾薬庫入口
副入口。迷彩模様が生々しい
地下通路。左手に砲側庫入口が並ぶ
砲側庫内部。3部屋あり内部で接続。
突き当りの揚薬井室。通路幅2m。
天井の揚薬井の穴。2m×1.5m
揚薬井。上部は突き抜けていない。
通気口の外部構造物。雨除けは無い
砲側観測所入口。現、第一展望台。
破壊された廃墟の上に展望台を建設。
潮測井戸。砲側観測所まで電纜を接続。
高山主観測所跡地。遺構は何もない
高磯の台地上に設置されている。天井部分が破壊され側壁だけが残る。
観測所脇の用途不明構造物
入口の翼壁。砲側観測所と同様の構造
奥の地下1階は観測具室であろう。