観音崎第二砲台(北門第二砲台)

<沿革>横須賀市鴨居小字観音崎
・明治13年5月:起工(起工日は第一砲台より早く、日本近代砲台の嚆矢である。)
・明治17年6月:竣工
・明治22年:19珊加農1門(27年撤去)、24珊加農1門(31年撤去)、克式24珊加農1門(31年撤去)、安式24珊加農1門(31年撤去)据付
・明治27年:26口径24珊加農砲4門据付
・明治30年:26口径24珊加農砲2門据付
・大正12年9月:関東大震災により損傷
・大正14年7月:除籍
・24珊加農砲6門砲台

<構造>
南北にゆるい弧を描いて6つの砲座が並び、第一砲座から階段状に低くなっていくので「だんだん砲台」とも呼ばれる。第二砲台隧道を抜けてアクセスする。
24珊加農砲6門の砲台。砲座は右側から第一砲座となるが、砲座の形状は少しづつ異なる。砲座間には横墻が築かれ、横墻下部にレンガ造の砲側弾薬庫があり、第一砲座〜第三砲座では、砲側弾薬庫からの砲弾搬入路が砲座面に直接開口している。
第一砲座の背後から山を巻いて山頂に上る通路が設けられ、山頂には明治30年頃増築された観測所(司令所及び付属室)がある。 この観測所は第一、第二砲座の砲軸線上の右翼にあたる位置になる。 司令所下には岩盤をくりぬいて付属室となる掩蔽壕が構築されている。第二砲座の背後には、石垣を隔てて平地が作られており 付属施設が建っていたものと推測する。
第二砲台隧道内には第一砲座の砲側弾薬庫の開口部がある。また、隧道中ほどには、レンガ造洞窟式弾薬庫が2基築かれている。

<現状>
日本初の近代砲台でありながら、砲座や掩蔽壕など多くの施設が残る大変貴重な遺構である。
第一〜第三砲座と、砲座間の横墻及びレンガ造砲側弾薬庫はそのまま残っている。砲座内には、伝声土管や弾室(即用砲弾置場)が設けられており、弾室番号の墨書も残る。 砲座内には砲固定用と思われるコンクリート塊も残る。 砲側庫はフランドル積みレンガ造でカマボコ型のヴォールト天井や漆喰などもきれいに残っている。 残念ながら第四〜第六砲座の場所には、東京湾海上交通センターが建てられ、遺構は残っていない。(第四砲座の胸墻が位置を変えて壁に再利用されている)
右翼山頂の観測所(司令所及び付属室)も残り、終戦のどさくさでほとんどの鉄製品が盗まれたなか、 転落防止用の鉄製手摺や掩蔽壕通気口の鉄製屋根(これは後世のものかもしれないが)は貴重な遺構である。観測所へ至る交通路の曲面の擁壁も良好な状態で残る。
交通路となる隧道内には、第一砲座砲側弾薬庫の出入口と2基の洞窟式弾薬庫がそのまま残っている。現在、海上交通センターの入口として使われているが、落盤の危険のため関係者以外立入禁止になっている。

JACAR Ref.C03023091300「密大日記明治30年」(防衛省防衛研究所)

明治41年版地図

第二砲座。中央胸墻の石積は1m
四方の御影石で築かれている。

砲座背部交通路沿いに砲座が並ぶ。
写真中央は第一、第二砲座間横墻。
奥は第二、第三砲座間横墻。

砲座面に開口する揚弾口。脇には揚弾
機が設置されていた。
現在フェンスで立入禁止となっている。

第一砲座の砲側弾薬庫。フランドル積
レンガ造で2室設けられている。

第二砲座の砲側弾薬庫。通路に対して
45度の角度で造られている。

隧道内に開口している第一砲座の砲側
弾薬庫の出入口

砲台入口となる第二砲台隧道。
約100mある。

砲座内弾室。奥壁に「二ノ一」の墨書
が読める。

(洞窟式弾薬庫)

隧道内にある洞窟式弾薬庫。
並んで2基設けられている。

壁に直角に掘られたトンネル内に
カマボコ型弾薬庫が造られている。

同左内部。前室を備えた構造で両袖
に点灯室が設けられている。

(指令所・付属室)

司令所(観測室)。中央の円柱と3本の
角柱は測遠機台。鋼製掩蓋を取り付け
ていたアンカーボルトも残る。
入口左右には小階段があり上部に出ら
れるようになっている。

観測所地下の付属室。
階段を上ると司令所。

指令所への交通路、山を掘り割って
通路を設けている。

地下付属室の開口部周りに設置された
転落防止用の鉄製手摺

付属室内部。一部屋で大きさは間口
奥行きともに4m、高さ約2.9m。

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