観音崎第四砲台(旧第五砲台、北門第四砲台、観音崎砲台)

<沿革>横須賀市鴨居小字観音崎
・明治19年:起工
・明治20年:竣工後、二十四センチ臼砲据付
・明治34年:途中十二センチカノンへの改修予定であったが着手せず、改めて克式十五センチ加農砲に変更、据付竣工
・大正12年:震災により損傷を受けるが、観音崎砲台として終戦まで存続
・二十四センチ臼砲4門から、克式十五センチ加農砲4門に改築

<構造>
南北に4砲座が並び各砲座間と両端に横墻が設けられている。 左端横墻上に観測所が設置され、前面海岸には、本砲台と第一砲台防御のための堡塁が構築され、中央部分には掩蔽壕も造られていた。
第1砲座と第2砲座および第3砲座と第4砲座間の横墻下部には砲側弾薬庫が設けられ、揚弾井によって砲座レベルまで揚弾され、左右の砲座に供給されていた。中央横墻下部にも掩蔽部が造られていたと思われる。 先端部の海中に浮かぶ構造物は、昭和12年に建設された水中聴測所である。
南門第一砲台とも呼ばれるが、震災復旧以降は、この砲台を観音崎砲台と呼ぶようになった。

明治41年版地図

<現状>
戦後、米軍に接収され、その後海上自衛隊の観音崎警備所となり、長らく東京湾の警備を担当してきたが、平成25年に廃止された。
遺構としては、4砲座および第3、第4砲座間の砲側弾薬庫や揚弾井、前面堡塁の掩蔽部などが現存している。しかし、後背部は、警備所施設を建設するため改変され、中央掩蔽壕と第1、第2砲座間の砲側弾薬庫はなくなってしまった。また、左翼観測所も大きく破壊されている。 なお、第4砲座左手の谷には太平洋戦争中に構築されたものと思われる地下壕が残されているが、開口部は塞がれており、実態は不明であるが、弾薬庫などであろうと推測している。または、場所柄、聴測所付属施設の可能性もある。

第4砲台(観音崎警備所)の背後から全景。
警備所建物の裏手は擁壁になって地形が改変されているが
その上部に第一、第二の二つの砲座が並ぶ。第三、第四
砲座間の横墻とその下部にある砲側弾薬庫が望める。
←左平面図は、当時の構造を推測して作成。

第一砲座から北方を望む、第一、第二
砲座間の横墻は削り取られている。

砲座内部、コンクリート製の胸墻は高さ
約2m。弾室は胸墻に4箇所、側面に
2箇所の計6箇所設けられている。

第三、第四砲座間横墻。地下弾薬庫
入口と上部石積に揚弾井が見える

横墻地下施設構造
入口はコンクリート製であるが、内部構造物はフランドル積みレンガ造である。厚い前面コンクリートは改修の際に造られたものと推測される。入口を入ると前室を経て、正面真ん中に細長い点灯室が設けられ、その左右に弾薬庫が配されている。弾薬庫内の内側壁には点灯室に通じる点灯窓が二か所開けられている。また、最奥部壁には内法一杯を使った通気口が作られ
ている。揚弾井は点灯室の両脇である。

砲側弾薬庫の構造図

入口から内部を見る
3つの入口があるが、中央は点灯室、
その左右は揚弾井、更にその左右に
弾薬庫という配置である。

第三砲座用弾薬庫内部

第四砲座用弾薬庫内の点灯窓(2カ所)

揚弾井内部。天井にフックが残る

通気口内部。レンガ支柱が見られる

前部堡塁内に設けられた掩蔽部

観測所跡に残る測遠機台

砲台背後から前面海岸へ通じる隧道。

北の谷に残る地下壕跡

同左。当時は鉄扉が付き、運搬用の
レールが敷かれていた。

海岸に残る聴測所。円形ケーソンの上
に楕円の建屋が載っている。

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