金属供出(梵鐘等)

社 会

兵器の製造に必要な金属資源の不足を補う目的で公布された金属類回収令(昭和16年9月1日施行)により、官民所有の金属類は、装身具、鍋・釜から門扉、銅像、梵鐘などあらゆるものが根こそぎ回収された。
教育現場では主に子供たちの募金で作られた二宮金次郎像などもすべて供出され、その跡は石像にとって代えられた。
施行時期に注目して欲しい。太平洋戦争開戦前である。日中戦争の泥沼で既に資源が不足しているにも関わらず、米英に宣戦布告したのである。
この金属回収(供出)の事実を現在に伝える「もの」を調査し、写真とともに紹介する。
県外の対象物はこちらのページで紹介する。

<所在>
・横須賀・三浦地区:横須賀市鎌倉市逗子市三浦市葉山町
・横浜地区:磯子区金沢区戸塚区旭区栄区泉区西区
・湘南地区:藤沢市茅ヶ崎市平塚市寒川町
・県央地区:綾瀬市
・県西地区:南足柄市
・房総地区:富津市館山市

<横須賀・三浦地区《横須賀市》>

22 不断寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。(昭和19年供出、昭和62年再鋳)

梵鐘刻字
「歴劫巳来希有妙音轟カシタル當山名鐘モ 昭和拾九年太平洋戰爭ニテ國家ノ硬盾ナリ消ユ  爾来十方ニ活音響流スルコトナク往過ス 今旗斯ニ記主禅師七百回遠忌□□法恩ノ爲 檀信徒讃意を得當寺廿二世典誉此ノ 大梵鐘ヲ再鋳ス  願クバ寂滅爲楽妙音ヲ此山ニ発シ求法結縁ノ 根幹トナリ□大調和シ世界ノ永劫ニ安穏ナルコトヲ
昭和六十二年 太秦宗徹鋳」
所在:不断寺(横須賀市)

36 良心寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
供出された梵鐘は、明和8年11月(1771年12月)に鋳造された古鐘。 刻まれている銘文は、前半は旧梵鐘の銘文を再掲し、後半が新鐘の銘文となっている。
(明和8年鋳造、昭和18年4月供出、昭和55年10月再鋳)

梵鐘刻字
「〜明和八辛卯冬更命治工再鎔鋳神器圓成聲洞碧天響振 虚谷然而昭和十八年四月爲大東亜戦意昂揚挙 國供出金属出征梵鐘以来酸心肺兩殆裂肝胆惆 悵快々而不晴時于昭和五十五年庚申善導大師 千三百年遠忌記念柤越眞誠期山門鐘樓再建住 昔之神韻眉蒐秀江山胸藏機天地神韻縹渺焉
〜 良心寺十九世 敬蓮社信譽謹書之 昭和五十五年庚申十月吉日〜」
所在:良心寺(横須賀市)

37 福本寺の梵鐘

この梵鐘は、金属供出されなかったことが刻されている逆の例である。
福本寺では、当時、鎌倉英勝寺の寛永20年鋳造の貴重な鐘を預かっていたため、大東亜戦争の際に供出されなかった。戦後英勝寺に返還したが、その代わりに同形の梵鐘が贈られた。これが現在の梵鐘である。

梵鐘刻字
「降鏡山福本寺梵鐘br> 鎌倉扇谷英勝者水戸頼房公准母太田襌尼所剏建也舊蔵梵鐘有寛永二未年林羅山撰銘 明治維新際歸于佐島福本寺及大東亜戰起諸寺鐘多被没収此鐘幸免難者由其在假地與有羅山銘也 近來有志徒憂英勝寺荒廃□保存會謀其復興鐘楼修理落成懇請舊鐘返還福本寺住職□諾壇徒亦 賛成之英勝寺文化財復興保存會大徳之新製同型鐘贈之 福本寺以報其恩義嘱余爲之記余深感両者之美擧不辞不文叙其縁由 銘曰」
所在:福本寺(横須賀市)

39 満昌寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により享保17年鋳造の梵鐘が失われたため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(享保17年鋳造、供出後、昭和46年7月再鋳)

梵鐘刻字
「義明山満昌禅寺再鋳鐘銘並序
勅修百丈清規曰大鐘暁撃則破長夜警睡眠暮撃則覚昏衢疏冥昧 雖然今次大東亜戦争勃発國家擾々之間當山三百年來所懸梵鐘被徴集而境域闕法器現住宗禅和尚常懐再懸誓願到テ今四半世紀也于茲機縁漸熟担信徒喜捨浄財效再鋳之誠仍來請銘乃為之曰
 朝夕聞鐘謝衆恩  至心瞑目弔七魂  專祈願祖先冥福  兼念枝々葉々繁
昭和四十六年辛亥年七月十三日
建長素堂謹撰併書」
所在:満昌寺(横須賀市)

40 浄土寺の梵鐘

金沢区の寶勝寺と同様、一旦供出されたが、戻ってきたという珍しい来歴を持つ。
延享4年(1747年)鋳造の梵鐘は大東亜戦争中供出された。しかし、鋳潰されず横須賀海軍工廠に置いてあったため、進駐軍によって本国に輸送され、アトランタの公園にあったそうである。 銘から浄土寺のものと判明し、昭和35年の日米修好通商100年に合わせて同寺に返還された。
現在は、鐘楼がないため玄関前に鎮座している。
所在:浄土寺(横須賀市)

41 曹源寺の梵鐘

正徳元年鋳造の梵鐘であったが、大東亜戦争時の金属供出により失われ、戦後再鋳造された。梵鐘にその旨が記録されており、 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(正徳元年鋳造、供出後、昭和24年7月再鋳)

梵鐘刻字
「曹源寺梵鐘銘並序 曹源寺□天平年中開基行基菩薩於古道場行基草創也〜天正十□年後継六世禅厳和尚完成堂宇本堂庫院諸設備□□正徳年間鋳造梵鐘□爲大東亜戦争□献納由□鯨音忽絶□遂至敗戦斯世□人□其混沌矣師租深爲憾今茲念期再建平和日本誠朝暮而祈方民福楽謀梵鐘改鋳〜」
所在:曹源寺(横須賀市)

44 大光寺の梵鐘

銘文によると、最初の梵鐘を寄進した方の子孫が、現在の鐘を寄進したという縁の深い梵鐘である。
天明2年鋳造の梵鐘は、太平洋戦争時の金属供出により失われ、戦後再鋳造された。梵鐘にその旨が記録されており、供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(天明2年3月鋳造、昭和17年月供出、昭和46年月再鋳)

梵鐘刻字
「天明二年三月鋳造の鐘は昭和十七年十一月第二次世界大戰に応召供出す 往昔当平作の佳人 三堀伊豫守菅原利信の子信清安兵衛の祖となり後與十郎と改む(家号外田)  三堀伊豫守  菅原利信の子利清重郎左衛門の祖となる(屋号竹林)かって洪 鐘を寄進せし由來あり  今その末裔の両家相諮って聖誕七百五十年祭並に當山本堂瓦葺大改造に当り之を鋳造寄進す
昭和四十六年七月 平作山大光寺」
所在:大光寺(横須賀市)

45 妙蔵寺の梵鐘

近年大声大会のイベントで知られる池上の妙蔵寺である。
寛永4年鋳造の梵鐘は、太平洋戦争時の金属供出により失われ、戦後檀信徒により再鋳造された。梵鐘にその旨が記録されており、 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(寛延4年鋳造、昭和38年10月再鋳)

梵鐘刻字
「当山旧梵鐘寛延四年鋳造 造立主第二十四世日然也 然曩太平洋戦争之時 為国家徴用供出失之 今当於発願鐘鋳造 予檀信徒為所願立正 安國世界平和奉納此 願以此功徳奉納者 家運繁栄子孫長久事
 維時昭和三十八年十月十八日」
所在:妙蔵寺(横須賀市)



<横須賀・三浦地区《鎌倉市》>

8 満福寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(供出後、昭和44年10月再鋳)

梵鐘刻字
「満福寺縁起
當山は天平十六年聖武天皇の御宇行基菩薩の開創にして本尊薬師如来及日光月光の両霊体を安置し病災悉除を祈念されし霊地なり□ 元歴二年5月後鳥羽院の御代源義経公平家を討滅し宗盛父子を生捕にして鎌倉へ凱旋の途次入府を許されず當寺に滞留し起証文を書き しところなりその後大将十二年関東大震災に諸堂宇倒潰し山門鐘楼は昭和二年に本堂庫裡は昭和六年に新築修理をなす 抑を當山の梵鐘は中興賢海上人の發願により鋳造二百五十余年間法音絶えづ然るに未曾有の第二次大戦にこの洪鐘も供出の止むなきに至り 鐘楼堂のみを残せり此に於て當所外山繁太郎氏 美枝子氏梵鐘再鋳のため浄賽金百万円を奉納せられ梵音再び除夜暁の空に響を群生法悦歓喜せり  昭和四十四年十月吉日」
所在:満福寺(鎌倉市)

65 妙法寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(宝永6年9月鋳造、昭和18年供出後、昭和51年4月再鋳)

梵鐘刻字
「立正安国
宝永六年九月第二十三世日誘上人代鋳鎔 の旧鐘は昭和十八年太平洋戦役に供出せ るにより茲に再鋳す 昭和五十一丙辰歳四月如意珠吉祥 宗祖日蓮大聖人松葉谷御小庵霊跡 相州鎌倉名越楞厳山妙法寺  四十四世 自覚院日新 副住職 日出」
所在:妙法寺(鎌倉市)



<横須賀・三浦地区《逗子市》>

66 延命寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出令により梵鐘を失ったが、戦後の昭和30年に再鋳造された梵鐘。平成28年10月29日に鐘楼堂が新築され、平和の鐘と命名されたが、その際に石碑が建てられこの歴史が刻まれた。
(延宝7年鋳造、昭和20年供出、昭和52年12月再鋳)

石碑刻字
「延命寺鐘楼堂の歴史
当山の鐘楼堂がいつから存在しているかは不明だが 明治二十九年の延命寺大火災に於いて鐘楼堂を残し堂宇全てを焼失すると記述がある 大正十五年五月二十九日 第 七十一世住職本瑞代に改築すると記述がありその後 戦火を免れるも戦中の供出令により旧梵鐘を失うこととなる 昭和三十年第七十二世祐瑞代に鐘楼堂を改修し新たに梵鐘を設ける 第七十四世宜優代となり平成二十七年高野山御開創千二百年記念大事業として檀信徒有志の協力のもと 老朽化が激しくなった鐘楼堂を新築し 平成二十八年十月二十九日完成する 〜」
所在:延命寺(逗子市)



<横須賀・三浦地区《三浦市》>

2 来福寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(延宝7年鋳造、昭和20年供出、昭和52年12月再鋳)

梵鐘刻字
「前鐘は第二次世界中の昭和二十年國策の為 余儀なく供出せられたり 今回佛法弘通の無限の 願いをこめ佛祖の冥祐と問信徒こぞっての懇念により之を鋳造す」
「正覚大音響流十方」
「神奈川県三浦市南下浦町上宮田 和田山 来福寺
第三十一世  願主 住職 釈祐智     坊守 釈美芳
施主 檀信徒一同
昭和五十二年十二月」
所在:来福寺(三浦市)

35 福泉寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(貞永5年7月鋳造、供出後、昭和62年9月再鋳)

梵鐘刻字
「相州三浦郡三戸村進藤庄兵衛外六十四名 于時貞享戊辰歳(西暦一六八八年)七月吉祥日 龍圓山福泉寺第七世廓誉峯雲直路大和尚 武州江戸神田鍋町住鋳物師宇田川甚右衛門尉 藤原利重作
右前鐘銘也第二次大戰により供出せり 此度當山檀信徒及び有縁者等の浄財喜捨 を受け再鋳せり〜 昭和六十二年佛誕日
昭和六十二年九月二日鋳造 龍圓山福泉寺第丗八世明誉」
所在:福泉寺(三浦市)

38 浄称寺の鐘楼<

浄称寺には享保7年(1722年)鋳造の梵鐘があったが、惜しくも大東亜戦争中に供出されてしまった。 現在は、主のいない鐘楼のみが寂しく残されている。
所在:浄称寺(三浦市)



<横須賀・三浦地区《葉山町》>

31 新善光寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(宝暦8年鋳造、供出後、昭和45年再鋳)

梵鐘刻字
「梵鐘再鋳由来 昭和二十年八月十五日當山梵鐘の供出も功 成らず多くの英霊と共に戰なき聖なる社會 建設に心魂を注ぐ機となった尓来二十五年國 挙げての精進に因り國豊かに人心宗教に趣く祖 先□□□和文化の人柱に敬虔の念□く能はず壇信徒 総意集り永年空しき鐘楼に洪鐘を掲ぐ 昭和四十五年庚戌年秋」
所在:新善光寺(葉山町)

43 本圓寺の梵鐘

日蓮聖人が鎌倉へ向う途中に滞在され、法華経の基を定めたと言われる霊場である。
享保19年鋳造の梵鐘は、太平洋戦争時の金属供出により失われ、戦後再鋳造された。梵鐘にその旨が記録されており、 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(享保19年10月鋳造、供出後、昭和48年再鋳)

梵鐘刻字
「福聚の鐘
〜この堂宇は享保十九年十月吉辰二十四世日理聖人の代に十方の檀信の浄資を受け梵鐘を掲げ妙音を伝うること久しかったのであります 然るに太平洋戦のため供出の厄に遇い其の尊形を失いその後再鋳の要望しばしばありましたが時期熟せず今日に及び荒本家 より先祖追善のために拠金の申出あり〜
相州葉山町木古庭 日蓮宗大明山本圓寺 願主 住職小崎龍雄 施主檀家 荒本廣次
維時昭和四十八年十月十五日」
所在:本圓寺(葉山町)



<横浜地区《磯子区》>

33 願行寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(元禄15年鋳造、昭和19年供出、昭和37年5月再鋳)

梵鐘刻字
「當寺初代の梵鐘は元禄十五年武蔵國久良岐郡森村徳江太郎左衛門に依り鋳造せられ其の妙音は遠く海上遥かに余韻を伝へし銘鐘なりしも昭和十九年太平洋戦争に際し國の要請に応へて供出したるを以て徳江泰治郎氏大施主となりて宗祖法然上人七百五十年御忌報恩謝徳並徳江家祖先追孝の為め新に鋳造寄進されたるものなり
伏して希は梵音入寒に徹して萬善壮□し一切衆生悉く福寿無量ならんことを 〜 昭和三十七年五月吉日」
所在:願行寺(横浜市磯子区)

34 篁修寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(延享元年鋳造、供出後、昭和44年7月再鋳)

梵鐘刻字
「鳳林山篁修禅寺鐘銘
篁修禅寺舊存祖越金子氏遠祖傳左衛門者所施梵鐘 鐘中含 黄金餘韻尢嫋々近郷傳稱屏風ヶ浦八景之一而當今次大東亜戦争罹醵出之難堂患□典偶〃當寺開山禅師光室大和尚六百遠年諱在近々十年後現住祖山和尚再鋳茲鐘以欲充報恩之行事普咨 〜昭和四十四年七月」
所在:篁修寺(横浜市磯子区)



<横浜地区《金沢区》>

1 宝勝寺の梵鐘

一旦、供出されたが、不思議な縁で元の寺院に戻ってきた稀有な梵鐘。
今は境内に展示されており、傍らには説明板がある。内容から推測すると、供出後どういう理由かはわからぬが、潰されるのを免れ返還されたが、梵鐘に飯盛山と刻されていたため、 会津若松の飯盛山の寺院に行ってしまった。 そして、会津の寺院で他寺の梵鐘であることがわかり、元の寺院に戻されたものであろう。

説明板
「歴代の梵鐘(二百八十年前)
享保の梵鐘徳川吉宗時代鋳造
大東亜戦争に供出した鐘で平成元年に福島県会津の寺にあるのが解り五十年振りに菩提寺に返還されました 
飯盛山 寶勝寺」
所在:寶勝寺(横浜市金沢区)

32 薬王寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(天保10年鋳造、供出後、昭和36年8月再鋳)

梵鐘刻字
「横浜市金沢区三療山医王院薬王寺鐘銘
当山は源範頼公別邸持仏堂の跡を継ぎ同公の護持仏薬師如来を安置す  往時兵災或は類焼の厄に遭い法燈絶えんとするも中興尊誉法印等 興隆に努め江戸末期数ケ寺を合祀す  天保年間改鋳の梵鐘は名響の誉きも大東亜戰に供出し終戦空寂  昭和廿三年混沌たる世相に精神文化揚の道場として壇信徒の絶大な護符のもと に本堂新築 今茲に増築完成並に梵鐘再鋳造の熱願成就せり  即ち遠近の衆生旦に祈り夕に感謝して自巳の尊厳を覚り精進努力を誓い以て 乃至法界平等利益の勝縁を結ばんことを
 昭和丗六年八月六日 薬王寺丗五世 成融謹誌 鋳匠京都 岩澤徹誠」
所在:薬王寺(横浜市金沢区)

63 光傳寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(元禄14年2月鋳造、昭和17年11月8日供出、昭和30年5月再鋳)

梵鐘刻字
「夫レ以レバ方法本無ニシテ此レ□滅ノ法而七縁ニ 随ツテ眞裕ノ化相ヲ現ズ柳ゝ洪鐘ノ圓ナルハ法 界ニ象リ清韻ハ梵律ヲ伝フ是レ即チ現世安 民法界ノ證迷ノ表儀ナリ茲ニ当寺ノ梵鐘ハ昭和 十七年十一月八日第二次世界大戦ニ供出終戦ヲ経 テ尓来十歳ノ星霜ヲ加フ  此ノ度檀徒総代並世話人相計リ遠近ノ善男 善女ヲ勧誘シ親疎ノ士ヲ奉加シ新タニ鋳造ノ 成就シテ此ノ供養ヲ爲ス信施ノ大願ト誠心ノ鐘 音十方仏回ニ響キ渡リ法場ノ格律ヲ致シ泉 ノ迷途ニ伝ヘ流レテ心身ノ苦憲ヲ解脱セシム  今ヤ 其ノ慶讃ノ式ヲ挙ゲテ如上ノ成果ヲ告ゲ奉ル 希クハ施主ノ後生結縁ノ菩提一切平等ニ此ノ 功徳ヲ以テ安楽国ニ往生セシメ給ハンコトヲ謹 ンデ疏ス  昭和三十年十月一日 常見山光出傳寺第二十二世」
所在:光傳寺(横浜市金沢区)

64 天然寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(昭和17年5月供出、昭和32年9月再鋳)

梵鐘刻字
「〜伏シテ惟フニ洪鐘ハ鐘聲一度響ケバ十方ニ聞ヘ衆生ヲシテ 煩悩ノ眠リヲ醒シ本目佛性ヲ開顕セシムルノミナラズニ悪道ニ □レルモノ皆苦ヲ離レ安楽ヲ得セシム斯如キ天然寺ノ梵鐘ハ昭和十七年五月大東亜戦争ノタメ献納シ爾来十有余年ノ星霜ヲ経タリ
偶々昭和三十六年ハ浄土宗元祖法然上人七百五十年遠忌ヲ迎フルニ際シ報恩謝徳法要記念事業トシテ梵鐘鋳造発願シ檀信徒総代世話人ト相計リ佛縁ノ善男善女同信ノ翼賛ヲ勧誘シココニ梵鐘鋳造ヲ成就シテ其ノ供養ヲ爲ス〜 発願人 第二十六世 華誉霊賢 〜昭和三十二年九月竣成」
所在:天然寺(横浜市金沢区)



<横浜地区《戸塚区》>

3 成正寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(昭和48年11月再鋳)

梵鐘刻字
「記 當山ノ鐘楼建立ハ□応元□年開基法印海順大 阿闍梨ノ代斉藤兵部尉入道成正ノ願ニヨリ本 堂ト共ニ建立シタルニ第八世雲承ノ代数度ノ 兵乱ニテ諸堂零落仕リ鐘楼ハ群賊ノタメニ奪 ハレ幾星霜ヲ送リ其ノ後再建セルモ北條小田 原ノ戦ニ持チ去ラレ明治初年境内地ノ奥ニ建 立スルコトヲ得タリシカレドモ太平洋戦争ノ 最中再ビ国家存亡ノタメ軍ニ供出 以後寺内ニ 鐘ノ音ニ久シク絶ヘテ今日ニ至ル 近年檀信徒 ノ中ニテ梵鐘ノ再建ヲ願フ者多数アリ 今年親鸞聖人御誕生八百年立教開宗七百五 十年ヲ迎フルニアタリ弥陀ノ慈悲ト聖人ノ愛 慈ヲ心ヨリ受ケルベク一同據金シテコレヲ建 立ス 」
「柏尾町 東谷山聖徳院成正寺
 願主 第二十八世釋義雄  施主 門信徒一同  昭和四十八年十一月吉日」
所在:成正寺(横浜市戸塚区)

4 長福寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(安永9年鋳造、昭和18年供出)

梵鐘刻字
「当山にはもとより洪鐘があったが 昭和十八年太平洋戦争の時供出して鐘楼だけ淋しく 残った 今回佳職や檀信徒が発願して再び洪鐘を鋳た  どうかこの鐘をきくものはみな佛心に目覚めて正しい  〜略 」
所在:長福寺(横浜市戸塚区)

5 親縁寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(寛延4年鋳造、昭和17年11月8日供出)

梵鐘刻字
「富塚山親縁寺は遊行四代呑海上人の開基より寛延四年に覚阿上人の発願により梵鐘は鋳造されるも大東亜聖戦目的完遂の為め昭和十七年十一月八日供出せり  四十九□慶□和尚之□ 再興を計り近隣道俗を勧進し佛歴二千五百年を記念し世界平和の為めに法□洪鐘を鋳造せり 又地蔵堂屋根 の銅葺替□に鐘幡大□寶輪塔等堂宇の佛具□□を完備」
所在:親縁寺(横浜市戸塚区)

6 永勝寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(享保5年鋳造、供出後、昭和59年8月再鋳)

梵鐘刻字
「當山ハ往昔天台宗ノ名藍為り祖師親鸞聖人関東御教化ノ頃帰依シテ浄土真宗ト為リ七百六十余歳  當初ノ梵鐘ハ戰國ノ世ニ散佚セルモ享保五年當山第二十二世住職釋淳察師コレヲ再興シ年歴久シキニ昭和ノ大戰ニ再ビ砲煙ニ滅ス  今日ニ至リ曝露荒寥ノ鐘楼堂ヲ梗概セラレシ門徒吉田金作氏一族ニヨリ新タニ再鋳ノ縁起リ成就スルモノナリ  昭和五十九年八月吉日」
所在:永勝寺(横浜市戸塚区)

18 御嶽神社の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(昭和19年供出、昭和57年11月再鋳)

梵鐘刻字
「当神社の神鐘は第二次大戦の末期 昭和十九年国家資源総動員令発令と共に惜別以来 三十九年無鐘となり 其の間幾度となく 基本的な計画が進められ 今回氏子中の総意に依り再建された  昭和五十七年十一月吉日(一九八二)」
所在:御嶽神社(横浜市戸塚区)

19 福泉寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(昭和16年供出、昭和40年再鋳)

梵鐘刻字
「安永六年秋當山十世代に建立せるも昭和十六年太平洋戦に當り梵鐘の応召を受く その後堂于は二十有余年の風雪に耐えてきしも檀徒の発願かないここに改修のはこびに至る もって鯨音を萬世に傳う 昭和四十年仲秋 當山二十八世 道俊代」
所在:福泉寺(横浜市戸塚区)

24 徳翁寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(昭和18年供出、昭和48年12月再鋳)

梵鐘刻字
「由来
当山梵鐘は昭和十八年偶々世界大戦の 激發により挙世□乱遂に應徴し兵器に 供せられ爾来二十有余春秋その妙声は絶 え鐘楼堂に姿なきを仰ぎ見るに寂寥の 感に堪えず昨今漸やく世相安泰機縁熟 し、この時に当り永明二十五世圓厳祖峯大和 尚、本寺徳翁寺に對し梵鐘寄進を發願せり
然し乍ら意を達せず病臥遷化されるに際し 遺第圓岳征史和尚、本師遺意に依って 徳翁二世永明□山興山舜養大和尚品位、歴佳諸位 大和尚品位酬恩奉り、因に永明二十五世 再中興圓厳祖峯大和尚に資薦して品位 を増崇せんとし、ここに梵鐘を鋳造して寄 進する者也
 維時昭和四十八年十二月十二日
三途八難息苦停酸 法界衆生聞聲悟道」
所在:徳翁寺(横浜市戸塚区)

25 北天院の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。

梵鐘刻字
「銘曰
  品濃山北天院は大本山鎌倉圓學寺 開山佛光國師の開創せる寺にして 爾来六百八十有余年 法幢連綿と して此に存せり
因に當山梵鐘は宝暦年間第十四世 英州和尚代鋳造せられし物なるも 太平洋戰爭の徴に遭うて梵音忽ち 消ゆ 之が爲檀信徒が勿論遠近の 道俗甚だ寂寥たり
依って茲に遍く十方有縁之坦拾を 募り新たに寶鐘一口を鋳造し以て 其の欠を補ひ併せて祖霊の菩提と 四海の安康を祈るもの也 合掌
現住一渓誌」
所在:北天院(横浜市戸塚区)



<横浜地区《旭区》>

23 三佛寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(宝暦11年鋳造、昭和17年供出、昭和32年4月再鋳)

梵鐘刻字
「〜爾来百八十有五年間梵音ハ 十方ニ流レ永ク夢衆生ノ□夢ヲ覚□セシカ昭和十七年太平洋戰爭 ニ際シ梵鐘ハ軍ノ兵器トシテ供出セラレタリ以来鐘楼空シク 朽チテ梵音中絶ス偶々十八世教誉代當山總代世話人等深ク〜 維時昭和三十二年四月佛誕日」
所在:三佛寺(横浜市旭区)



<横浜地区《栄区》>

7 光明寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(安永6年鋳造、昭和19年供出、昭和46年再鋳)

梵鐘刻字
「・・・ 焼失の難に遇すも寶暦三年本堂再建同三年庫裏安永六年梵鐘再鋳鐘楼復興す。後明治初年廃佛棄釈の時支院二寺等を失ひ同四十一年庫裏改築の事あるも 昭和十九年大東亜戦に梵鐘佛具等供出し戦中戦後の混乱期に講堂漸く荒廃に瀕す。然ども邦國の回復と共に機運列りて昭和三十五年 寶暦建立以来の本堂を改修し諸佛具等着々と整ひ同四十六年庫裏改築客殿新築並に鐘楼再建梵鐘再鋳等の事続て成就せり是れひとへに佛縁のもよほす処並に門徒中□念の然らしたる処なり   維時昭和四十六年夏記之」
所在:光明寺(横浜市栄区)

17 玉泉寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(明和4年鋳造、昭和17年供出、昭和38年10月再鋳)

梵鐘刻字
「梵鐘再鋳の序 當山には明和四年鋳造の梵鐘があって常に山頭に妙音を響かせ特に近隣の人々は晝食の時を知る唯一の 手段として「玉泉寺の日中」と称し非常に親しまれて居りました 然しこの鐘は昭和十七年戦争遂行のため一切の金属類と共に徴発されて兵器となり妙音絶えて二十年余りとなりました。そこで之を再鋳したいと思い十方に勧縁し有縁の方々の大なる捐資により之を再鋳することが出来ました 〜昭和三十八年十月吉祥日再鋳」
所在:玉泉寺(横浜市栄区)



<横浜地区《泉区》>

16 永明寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(昭和18年供出、昭和44年12月再鋳)

梵鐘刻字
「由来 当山梵鐘は昭和十八年偶々世界大戦の激發により挙世□乱遂に応徴し兵器に供せられ 爾来二十有余春秋その妙声は絶え鐘楼堂に姿なきを仰ぎ見るに寂□の感に堪えず昨今漸やく世相安泰機縁熟しこの時に当り当山二十五世四男全之昭和十四年十月伊豆宇佐美円応寺より当町に移住以来三十年石田建設株式会社創立十周年を迎えるに際し永明寺〜昭和四十四年十二月吉日」
所在:永明寺(横浜市泉区)

20 飯田神社の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(供出後、昭和46年9月再鋳)

梵鐘刻字
「此の里に住む世々の人びとの崇敬をあつめた當社には往古より神鐘が備えられその妙音は殷々として飯田の里にこだまし氏子の心耳を浄めたが太平洋戰争末期軍需物資として供されて以来二十有余年その鐘声は消え去った 今境川添いの開発に伴い中組が共有地を新鐘にかえこれを寄進氏子一同相計りて旧鐘楼を復修し平和と繁栄を祈念此の由来を後世に伝える 上飯田中組一同 昭和四十六年九月吉日」
所在:飯田神社(横浜市泉区)

26 密蔵院の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(供出後、昭和41年9月再鋳)

梵鐘刻字
「當山什器洪鐘太平洋戦争之□因 官命供出唯有堂宇茲機縁相熟篤 信之檀徒矢澤□之□居士爲米壽 祝賀之記念税私財新鋳造百五拾 余貫之巨鐘懸堂宇荘厳境内令一 般民衆結縁一打鐘〜
維時昭和四十一年九月二十三日 南竺山密蔵院正覚寺 現住 田中章道」
所在:密蔵院(横浜市泉区)



<横浜地区《西区》>

48 井伊直弼銅像<

この像は、開港に際しての井伊大老の功績を顕彰するため、明治42年に建立されたものだが、太平洋戦争中金属供出により撤去された。開国100年祭にあたり再建され、銘板にその歴史が刻まれている。
台座は、明治42年当時のもので、設計は横浜の赤レンガ倉庫などを設計した妻木頼黄、横浜市認定歴史的建造物となっている。
(明治42年建立、昭和18年供出、昭和29年再建)

台座裏面銘板:「 安政五年大老井伊掃部頭直弼は 内外の紛擾を排して 日米修好通 商條約の調印を決行し ひろく通 商の基を開き 近代日本發展の端 緒をつくった 明治十四年旧彦根 藩有志は 直弼追慕のため建碑の 擧を興し 大老の事績に縁故深き 横浜に地を卜し 戸部町に一岡を 購い 掃部山と称してここに造園 を施し 明治四十二年園内一角に 銅像を建立し 越えて大正三年園 地とともにこれを横浜市に寄附し た 不幸大戦中の金属回収により 銅像は昭和十八年撤去の運命に遭 い 公園また昔日の□なきところ  たまたま昭和二十九年開國百年 祭を催すに方り 記念行事の一環 として 開國に由緒深き井伊掃部 頭の銅像再建と掃部山公園の整備 を企画し ひろく市民の協賛を求 め ここに復旧の業を興した
昭和二十九年六月二日  神奈川縣 横濱市 横濱商工會議所 横濱市長平沼亮三書」
所在:掃部山公園(横浜市西区)



<湘南地区《藤沢市》>

10 万福寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(文政9年鋳造、供出後、昭和58年再鋳)

梵鐘刻字
「〜 幕末維新時の苦難を凌ぎ良月 古刹□然寺より養子して法燈を嗣ぐ廿 五世良正はその実嗣なりその間人災に より梵響絶ゆ大東亜戦の軍需供出なり 今師性和純にして佛典の傍史書を好む〜 護法の念篤く報恩念佛に精進すさきに 一山門徒の維持を得て本堂を新にし山 門を興こし庫裡を整のえ今茲に梵鐘を 復すそれ梵鐘は印度祇園精舎に発し抜 苦興楽の功徳ありこの宝前の結衆斉し く利益に浴すること必定なり謹んで識す
昭和五十八年十月吉日
□子 文学博士 服部清道
神奈川県藤澤市鵠沼神明 鵠沼山清光院萬福寺 」
所在:万福寺(藤沢市)

11 伊勢山公園の鐘楼<

このモダンな構造物は鐘楼であり、もともと山王山(山王神社があった場所だが、大正14年に藤沢町立実科高等女学校(後の藤沢高等女学校)が開校した地である)にあったものが、昭和のはじめに現在地に移設された。釣りさげられていた梵鐘は時の鐘として地域の人々親しまれていた。 しかし、昭和18年に供出され。以降そのままになっている。
*現地には、説明板等何もないのが残念である。


所在:伊勢山公園(藤沢市)

12 柄沢神社の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。神社の梵鐘である。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(明治26年10月鋳造、昭和19年供出、昭和31年9月再鋳)

梵鐘刻字
「当神社の釣鐘は明治二十六年十月氏神尊崇の 美念敦き氏子の浄財に依り鋳造奉献せられ 以来六十余歳の久しきに亘りその鐘声は朝夕遠近 に時を知らしめき御神徳を六哈へ位へ来しか 昭和十九年大東亜戦争末期惜別の情を以て 供出の止むなきに至り尓来十余年 鐘楼のみ淋しく残存せしか今回神徳を敬仰 する篤志家相謀り巨万の財を投じ巨匠 をして鋳造せしめたる麗巌無比なる釣 鐘を奉献し以て報賽の赤誠を奉りたり 茲に概要を剛刻して釣鐘再興の由来となす
 昭和三十一年九月吉日 柄沢神社氏子一同 文□宮司吉田正臣」
所在:柄沢神社(藤沢市)

13 遊行寺の手水鉢<

太平洋戦争時に供出されたが、戦後復元された手水鉢。傍らに由緒を記した石碑が建てられている。
(供出後、昭和44年3月復元)

本体台座刻字
「明治百年記念 遊行七十一世他阿隆宝上人□代」

由緒碑
「明治百年記念
往古より「餘つてかへる遊行寺 の手洗鉢」と世人の諺にまで 謂われ文化財にも比すべき本堂前の 手洗鉢が大東亜戰争の戦火に遭い 資源不足の為止むなく供出されて茲 に二十五年篤志家の御賛同 を得て復元いたしました 昭和四十四年三月廿六日
 発起人 岡村高宜 丸山太一郎 吉野巳之助 沼野井健之助 菊池信太郎 加茂公憲」
所在:遊行寺(藤沢市)

14 感応院の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(享保18年11月鋳造、昭和18年2月10日供出、昭和26年3月12日再鋳)

梵鐘刻字
「享保十八癸己天十一月七日當山 三十世左學頭長英新鋳當門末寺 院寄進昭和十八年二月十日□蒭 憲量仍政令供出仝二十六年三月 十二日再鋳卓三納之」
所在:感応院(藤沢市)

21 諏訪神社の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(昭和19年供出、昭和50年12月再鋳)

梵鐘刻字
「「諏訪神社の由来」 大東亜戦争に際会し昭和十九年國家に供出し爾来終戦後町内並に有志崇敬者敬神の念厚く子孫繁栄を祈願し再建を企画茲に完成奉納するものなり 昭和五十年十二月吉日」
所在:諏訪神社(藤沢市)

27 雲昌寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(文化年間鋳造、供出後、昭和60年再鋳)

梵鐘刻字
「當寺には文化年再鋳の梵鐘ありて朝夕 佛音を村々に響き傳えてきしも太平洋戦争 に應召絶えて梵聲響き無きを悲しみ再度 梵聲の響きを村々に傳えんものと住職發願 檀徒一同の共賛ありて今回重再鋳となる〜
維時昭和六拾年彼岸吉日鋳造之 願主 雲昌貮拾七世仙獄憲昌 檀徒一同」
所在:雲昌寺(藤沢市)

28 若宮神社の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(昭和19年供出、昭和54年7月再鋳)

梵鐘刻字
「若宮に設置されて居りました 神鐘は氏子の皆様から数々の思い出深い釣鐘として親しまれて来ましたが 昭和十四年(一九三九年)世界大戦が勃発し同大戦中、國家資源総動員の爲昭和十九年國へ 献上した 以後三十有余年の歳月を経過致しましたが 氏子崇敬者の総意に依り平和の鐘として復元する 昭和五拾四年七月吉日  奉納 氏子崇敬者一同 平和の鐘」
所在:若宮神社(藤沢市)

29 宇都母知神社の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(昭和20年供出、昭和50年9月再鋳)

梵鐘刻字
「郷社 宇都母知神社略記
 當神社は〜 明治六年(一八七三年)郷社に列せらる 大正十二年九月一日震災により社殿 悉く全潰 大正十五年九月(一九二六年) 社殿等悉く復旧落成せり  昭和十四年(一九三九年)第二次世界大戦 勃発し 同大戦中 国家資源総動員の為 昭和二十年鐘を国に献上する  戦後 氏子一同鐘楼に鐘無きを託つ 昭和 五十年天皇即位五十年 社殿復旧五十年をあ わせ祝い 氏子の総意により鐘を復元する  昭和五十年九月吉日   宮司 泊瀬川亨 謹誌」
所在:宇都母知神社(藤沢市)

30 大庭神社の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘に記載はないが、傍らにこの歴史を伝える石碑が建立されている。
(享保2年鋳造、供出後、昭和30年9月再鋳)

石碑碑文
「捷槌一打、餘韻嫋々、鎮守の森に鐘聲の響く時、衆人は心耳を浄められ百八 煩悩の絆を断って自由自□の境地に入ると伝えられる。 九月の頃、當神社の氏子相はかり鐘楼と梵鐘とを寄進した。爾来二百二 十余年。鳴り渡る妙音は朝、東の彩雲を驚かし夕。西方の残映を貫き殷々と して大庭の山野に、こだました。幼児が母の懐に抱かれながら眠る時に も目覚める時にも此の音に聞き馴れつゝ成長した。或は終焉に際しての入 相の鐘は頓證菩提の涅槃の雲を導き或は五穀豊穣の祝福を虚空に適満さ せた。氏子達にとりては此の鐘は骨肉の同胞であり□友であったのだ。  時恰も太平洋戰争の末期、敗戰の色濃く日本全土を覆うに至り軍需物資 として此の梵鐘は供出され人々を別離の涙に袖搾らせながら行方も知れ す消え去ったでである。 □戰後、氏子達は當神社の復興に力を傾け茲に新 鐘を鋳造してこれを旧鐘楼に懸吊するに至った。今、其の象形を視、其の音 聲を聴く。衆人の歓喜は蓋し蘇った親しい人に逢うたようなものであろ う。願わくはこれより當神社氏子の福祉の弥々大ならん事を  祈り 併せて後人に此の由来を伝う。     昭和三十年九月吉祥日  藤澤市長 金子一郎 撰文書」
所在:大庭神社(藤沢市)

69 子聖神社の梵鐘

「ねのひじりじんじゃ」と読む。文政期の古鐘であったが、太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後新規鋳造された梵鐘。梵鐘に由来が刻字されており、神社の由緒碑にもこの旨の記載がされている。
(文政6年鋳造、昭和19年供出、昭和56年8月再建)

梵鐘刻字
「謹記
当神社の神鐘は文政六年八月鋳造作者は江戸鋳物師粉川市正藤原国信作の名鐘と有り 現在より一五八年前百余年朝夕野に山に清流を渡り近郷迄優美の妙音を響かせ人々に親しまる  第二次世界大戦の末期昭和十九年国家資源総動員令発令共に 大勢の氏子に見送られ惜別以来三十八年無鐘と成る 氏子二百八十余名の総意に依り再建す
昭和五十六年八月(一九八一年)」
所在:子聖神社(藤沢市)



<湘南地区《茅ヶ崎市》>

9 上行寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(寛永2年鋳造、供出後、昭和42年10月再鋳)

梵鐘刻字
「嘉永二年に造られた旧梵鐘は第二次世界大戦末期供出され鐘楼は其の主を失って二十年余。偶ゝ今般檀徒沼井二郎殿養父母並びに有縁先 祖供養のため梵鐘再鋳を発願其の志に他檀信徒の喜捨協力が結集し完成したものである。
昭和四拾貮年拾月 再鋳
施主 貮拾参世 釋圓月 檀信徒一同」
所在:上行寺(茅ヶ崎市)

46 八幡宮の梵鐘

寛政4年鋳造の梵鐘は昭和18年に供出されたが、昭和20年7月の空襲により社殿、鐘楼とも焼失してしまった。戦後、鐘楼の再建にあわせて鐘も再鋳された。
(寛政4年鋳造、昭和18年5月供出、昭和33年12月再鋳)

梵鐘刻字
「暦来
寛政四年十一月江戸神田西村和泉守 作により重量壱百拾貫の梵鐘を鋳造 されたまゝ第二次世界大戦に際し 昭和十八年五月由緒深き梵鐘は軍事 資材として供出し昭和二十年七月十 六日米軍の空襲により八幡宮の社殿 悉尽く焼失するに至れり茲に氏子一 同協力して本鐘を再鋳せり
昭和三十三年十二月」
所在:柳島八幡宮(茅ヶ崎市)

47 第六天神社の梵鐘

梵鐘が供出されてしまったため、戦後、鐘楼を移設し、現在手水舎として使用している。この経緯は脇の石碑に刻まれ、後世に伝えている。


石碑刻字
「洗心
みたらしに かようこころ根 しめさはや よろすまか事 水にながして 野良人詠
沿革
本手水舎は古くは鐘楼として境内に存したるを大東亜戦争當時鐘は供出せられたるを以て現在の 場所に移し氏子一同の浄財をもちて 石は遠く群馬の川上より運び相模川の浄水道を引き洗心のところとす
昭和二十八年十二月 野良人詠 石黒翠波書」
所在:第六天神社(茅ヶ崎市)

49 鶴嶺神社の梵鐘

文化3年に再興された梵鐘は、太平洋戦争中に供出されたが、昭和40年11月3日、氏子らにより平和の鐘として再鋳された。
(文化3年鋳造、供出後昭和40年11月再鋳)

梵鐘刻字
「鐘銘
古記録によれば延宝八庚申天九月法印宥惠代また文化三丙寅天十一月龍燈山常光院法印覚融代に梵鐘再興す天下泰平、国家豊楽 護国成就興隆佛法請人快楽の刻銘は古鐘の面影にして我等が祖宗の志なり偶々大東亜戦争に際し国家に献納す戦後二十年再興の儀起り一打伴声 祖宗の偉業を継ぎこゝに浄財を捧げ八幡宮の神宝たるべき平和の鐘を再鋳するに至る
昭和四十年十一月三日氏子中  宮司 能條憲夫」
所在:鶴嶺神社(茅ヶ崎市)

50 日枝神社の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(文化3年鋳造、昭和18年供出、昭和57年12月再鋳)

梵鐘刻字
「鐘銘
 社伝によれば慶安二年に山王大権現を勧請し中島村の守護神とされたと伝えられており以前にあった神鐘にも山王大権現と銘がありと記録されているそのため当 社は明治以前は山王社と称されてきたが明治二年社名を日枝神社と改称し今日にいたったその間昭和十八年第二次世界大戦のため神鐘を供出し鐘楼のみになっていたが 雨風のため破損もひどく昭和五十六年解体するにいたった
 このたびここに根岸忠蔵氏が家運の栄昌と社会活動の成果は日枝神社の御加護によるものと鐘楼・神鐘の復元 を発意され郷内の信頼と連帯を基に永久し元の繁栄と平和を願って鐘楼と神鐘を寄進されたものである
昭和五十七年十二月吉日 宮司 能條雅則 鐘楼鈴木建設」
所在:日枝神社(茅ヶ崎市)

51 松尾大神の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(昭和18年供出、昭和57年7月再鋳)

梵鐘刻字
「銘曰
前鐘は昭和十八年大東亜戦争のため供出されしが永遠の平和を願い家運栄昌を祈念して再鋳されたものなり
昭和五十七年七月吉日」
所在:松尾大神(茅ヶ崎市)

52 龍前院の梵鐘

太平洋戦争時の供出を免れた梵鐘で、茅ヶ崎市内で最古の貴重なものである。その旨が教育委員会設置の説明板に記録され、金属供出という歴史の事実を後世に伝えている。


説明板
「龍前院の梵鐘br> この鐘は江戸時代に浜之郷村の領主であった山岡氏の五代目景忠が、弟の早死をいたみその供養のために再鋳させたものである。 元禄七年の銘がある。
第二次世界大戦の供出もまぬがれて、現在市内最古のもので、江戸期の典型的な姿を伝えている。〜
平成二十三年三月 茅ヶ崎市教育委員会〜」
所在:龍前院(茅ヶ崎市)

53 神明大神の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(安永4年再建、昭和18年5月供出、昭和31年9月再鋳)

梵鐘刻字
「昭和三十一年九月再建 赤羽根氏子中
由来
安永四年に再建せられたる重量壱百 貫と云ふ由緒深き梵鐘は昭和十二年に 端を発した日支事変に続く第二次世界 大戰に際し昭和十八年五月軍事資材として 供出するに至れり
以来昭和二十年八月終戰となるも容易に復 興せず遂に十年の歳月を経たるに鑑み氏子中 相計り茲に本鐘を再建せり〜」
所在:神明大神(茅ヶ崎市)

62 妙傳寺の梵鐘

正徳3年鋳造の鐘があったが、太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(正徳3年鋳造、昭和18年11月供出、昭和48年2月16日再鋳)

梵鐘刻字
「〜 それ正徳三年以来佛祖の盛大なる慈風 と衆生成佛の正因を四隣に傳えその美 音をもって四衆に親しまれし當山の 梵鐘は日本國の存亡をかけたる大東亜 戦争に昭和十八年十一月軍用資材 として供出のやむなきに至る尓来実に 三十年主なき鐘楼寂然として佇立せるも 日蓮大聖人身延入山七百年の佳辰を 迎え因縁漸く熟して総意以て再鋳造 のはこびに至れり今や再びその音聲と どろきわたりて娑婆即寂光上の妙 祖顕現を憶念せんことを    當山檀方中〜」
所在:妙傳寺(茅ヶ崎市)



<湘南地区《平塚市》>

54 前鳥神社の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(寛政2年8月改鋳、供出後、昭和43年秋再鋳)

梵鐘刻字
「〜當社に古鐘あり寛政庚戌八月改鋳す太平洋戦争中金属回収に際し供出氏子久しく之を惜む 茲に旧鐘の面影を留め新たに巨鐘を鋳す 宮鐘殷ゝ響き渡るところ鎮守永へに加護あらん
昭和四十三年戌申秋 創祀壹千六百年記念
前島神社宮司神代幸夫謹撰 奥州田中真治敬書」
所在:前鳥神社(平塚市)

55 真土神社の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(安永7年鋳造、昭和20年春供出、昭和36年8月再鋳)

梵鐘刻字
「神鐘再建の辞
安永七年鋳造の元神鐘は熾烈を極めた大東亜戦争のため昭和二十年晩春戰力増強の資に供したのでありますが戰は遂に利なく同年八月十五日終戰の大詔が下されその後年月は流れて己に十有七星霜を閲し今日に至りました所大神を敬仰するの念禁じがたく且つ境内の寂寥を黙視するに忍びずこゝに氏子及び崇敬者の総意により浄財を献じて再鋳の業を斉行した次第であります
希くは衆庶の上に洽く神徳を垂れ給はん事を謹で白す
神鐘再建委員〜
昭和世六歳八月吉祥日再鋳」
所在:真土神社(平塚市)

56 御霊神社の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(供出後、昭和58年4月再鋳)

梵鐘刻字
「開運勧業之鐘之銘
 ここ横内の地は往古大住郡西田村の郷と称し御霊神社は坂上田村麻呂により京都の御霊社より崇道尽敬皇帝を勧請祭祀せし鎮守にてまた相殿には国常立尊を奉祀し人々みな開運勧業の神と崇敬し奉る
 氏子に明日への希望と光を響かせし当時の古鐘は昭和十六年大東亜戦争勃発するややがて徴発のやむなきにいたり以後その響きも途絶えるにいたる このたび氏子の人々御神徳を慕い新たに鐘を鋳て奉納す 願わくはこの鐘の響きが朝な夕な鎮守の森の風と共にますますこの里を明るく豊かにしここの住む人々に永久の安泰をもたらしますことを
 宮司 沖津正  昭和五十八年四月再鋳」
所在:御霊神社(平塚市)

57 八坂神社の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(供出後、平成3年7月再鋳)

梵鐘刻字
「勧業招福の銘
八坂神社は素戔嗚尊を奉斎する延歴以前の旧社にして当時の古鐘は太平洋戦争時徴発されしにより氏子の人々御神徳を慕い新調す
この鐘が明日への希望と光を響かせこの里を明るく豊かにし永久の安泰をもたらすことを祈る
平成三年七月吉日 氏子中」
所在:八坂神社(平塚市)



<湘南地区《寒川町》>

58 景観寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(昭和18年5月供出、平成12年12月再鋳)

梵鐘刻字
「江戸時代より朝に夕に一里四方に鐘の音を響かせ人々に、景観寺の時を知らせる鐘として親しまれましたが、第二次世界大戦末期に国家資源不足により景観寺の鐘も供出することになり、昭和十八年五月檀家の人々全員に見送られ惜別以来五十数年間無鐘となりました。
父義信の意志を継いでここに鐘楼堂と梵鐘を作り奉納し、檀家各位の先祖の供養と各家庭の家内安全を祈願し、人々の幸福を観音さまにお願いするものです。〜
平成十二年十二月吉日」
所在:景観寺(寒川町)

59 貴船神社の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(昭和19年秋供出、昭和40年1月再鋳)

梵鐘刻字
「釣鐘再建の辞
元鋳造の釣鐘は熾烈を極めた 大東亜戦争遂行のため昭和十九年晩秋戦力増強の資に供したのでありますが 戦は遂に利なく翌二十年八月十五日終戦の大詔が下され 其の後己に星霜二十有余年 今日に至り大神を敬仰するの念禁じ難く且境内の寂寥を黙視するに忍びずここに氏子崇敬者の総意により浄財を献じて再鋳の業を斉行した次第であります 崇敬者名付けて平和の鐘と稱す 希くは衆庶の上に洽く神徳を垂れ給はん事を謹で白す
 昭和四十年元日  釣鐘再建委員 田端部落役員敬白」
所在:貴船神社(寒川町)



<県央地区《綾瀬市》>

67 深谷神社の梵鐘

昭和18年に供出された神鐘であるが、戦後の山神社との合祀をきっかけに両氏子によって鐘楼と共に昭和42年1月再鋳された。鐘楼に梵鐘に刻まれた文言を掲載した説明板がある。
(昭和18年供出、昭和42年1月再鋳)

梵鐘刻字
「深谷神社神鐘は太平洋戦争に際し昭和十八年戦力増強資材として供出し今回本蓼川部落厚木飛行場集団移転により山神社を深谷神社に合祀し之を記念として合併資産の一部を基とし氏子の浄財寄進により新たに神鐘並びに鐘楼を建立するもの也」
所在:深谷神社(綾瀬市)

68 大法寺の梵鐘

大法寺は室町時代、応永2年に創建された日蓮宗の寺院である。今はピラミッドで知られる。梵鐘は昭和17年に拠出後、30年を経て再鋳された。
(昭和17年12月12日供出、昭和46年2月再鋳)

梵鐘刻字
「梵鐘鋳造由来 畏き年月の間此の地方の時報として四衆に親しまれし當山の梵鐘は日本国の存亡をかけたる大東亜戰爭の最中昭和十七年師走十二日軍用資材として供出せられて遂にかへらず 弥来実に三十年主なき鐘楼然として佇立せるも高祖上人降誕七百五十年の佳辰を迎え因縁ようやく熟して再鋳のはこびに至れり  惟うに梵鐘は佛祖広大の慈風を四隣に傳へて衆上成佛の正因となさんとするもの今や再たびとどろきわたりて衆生の信田に□かい娑婆即寂光土の妙相顕現を憶念するのみ 経に曰く   鐘告四方 梵音海潮音    于時昭和四十六年二月吉日 法鏡山大法寺五十世嗣法住職教誓日要 〜」
所在:大法寺(綾瀬市)



<県西地区《南足柄市》>

42 最乗寺の梵鐘

道了尊で知られる大雄山最乗寺の梵鐘。文化11年鋳造の梵鐘であったが、太平洋戦争時の金属供出により失われ、戦後再鋳造された。梵鐘にその旨が記録されており、 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。
(文化11年鋳造、昭和19年4月供出、昭和24年5月再鋳)

梵鐘刻字
「大雄山最乗寺  獨住第十二世 瑩堂智□代
昭和二十四年五月五日
鐘銘並序
神奈川縣足柄上郡南足柄町関本大雄山最乗寺護國禅寺〜 昭和十九甲申四月十四日太平洋戦役之徴化 作兵器□殉國□召運爾來不復聞鯨音□信憂之〜」
所在:最乗寺(南足柄市)



<房総地区《富津市》>

15 本覺寺の梵鐘

太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。

梵鐘刻字
「當山□梵鐘は文化年度第二 十三世秀譽上人代の名作な りしも太平洋戦争中國家に 献納せり
今や平和の好期を迎え殉國 諸英霊並に祖信徒先□□位 菩提の為に十万有縁の浄財を 得て再鋳茲に成る」
所在:本覺寺(富津市)



<房総地区《館山市》>

60 鈴家住宅表門の鉄扉

明治21年開業の赤門整形外科内科を開設した鈴木家の建物は、大正13年に竣工した洋館で、国登録有形文化財である。 その表門も登録有形文化財であるが、門扉は、太平洋戦争中に金属供出された。その経緯が説明板に記載されている。

説明板記述抜粋
「昭和5(1930)年、近くに館山海軍航空隊が設置されましたが、昭和20年の終戦間際には、海軍将校の社交の場などとしても使用されたことがあるといいます。門は、目地にモルタルが使われ、石が積み上げられた構造です。建築当初は、鉄の扉が付いていましたが、第二次大戦中に供出されてしまい、現在、取り付け金具が残るのみです。」
所在:鈴木家住宅(館山市)

61 元大巖院常念佛堂の鐘

現在、消防団の半鐘として使われているが、これは元大巖院常念佛堂の鐘である。昭和17年12月8日、金属回収で供出されないよう当時の自警団の半鐘と交換して残したという由来がある。

梵鐘刻字
「大東亜戰爭完遂ノ爲金屬回収ニ際シ此ノ鐘ニ交換ス 昭和十七年十二月八日 館野第一分団」
「房州大網村 佛法山大巖院 常念佛堂」 「施主 武州江戸大傳馬町 壱丁目 中屋九兵清」 「時元禄十三庚辰歳 五月廿四日  江戸神田鍛冶町壱丁目 粉川屋仁左衛門作」
所在:(館山市)

このページのトップへ